のんびりしたい

ゆっくりしたい。

 3日連続で朝から晩まで労働したときがあって、その3日目の帰り、電車でミヒャエル・エンデの『モモ』を読んでいた。あと少しで読み終わるというところで舞浜駅に着いてしまい、しかし、最寄り駅に着いたところで切り上げるべき本ではないと思って、降りずに読んだ。終点に着くころに読み終わり、折り返しの電車は、ぼーっとしてたんじゃないかと思う。
 『モモ』の「モモ」は、時間の適切な進み方をよく分かっていた。時間は時計の中にではなく、生命の中にある。速いも遅いもなく、長いも短いもなく、ただ流れていくものとして。

 計られる時間と、ただ流れる時間、両者の間を揺れ動いている曲として、再びこれを取り上げておきたい。

ゆらゆら帝国「無い!!!」

今度はライブバージョンで


 電車を引き返して、最寄りで降りて、自宅に向かって歩いていたが、まだどうも帰る気にはならず、少し遠回りをした。翌日が休みだというのがよほど嬉しかったのだと思う、あまりにも、あまりにも急かされ続ける日々だった。


The Velvet Underground 『The Velvet Underground』

最初の10曲がこのアルバムの本編。なぜか拡大バージョンしかSpotifyにない…

 長い家路で、このアルバムを聴いていた。これがすごく心地よかったのは、ゆったりとした気分だったからだろうと思う。似たようなフレーズを繰り返すことが多くて、それを心地よく感じるには、ただ流れる時間の中に身を置くほかない。
 「The Murder Mystery」という9番目の曲、せわしない曲だと思っていたが、この前聴いたときは、その慌ただしさというのがある種のパロディに感じられて、結局これも、ゆったりと聴くことができた。本当に余裕があるからこそ、遊びとして、慌ただしさを表現している、とでも言うような。

 関口としゃぶしゃぶを食べた日に、そんな話をした覚えがある、素早く動くことを遊びとしてやるくらいには、我々はゆったり生きている、というような話を。今年の3月だったか、あれもいい日だった。

 忙しさとか速さとかを求めることは、よくよく見てみると滑稽である。はやければはやいほどいいっていうのは、本当に、みじめなことだ。

Lou Reed「Coney Island Baby」

穏やかに語りが進んでいく曲


 この曲を聴いているといつも

Ah, but remember that the city is a funny place

がいやに耳に残る。単純に聴き取りやすい英語がそこしかないからというのはもちろんあるが、Lou Reedの感情の昂ぶりも確かに感じる。
 funny placeの、この"funny"は、私が感じる「滑稽」と通じるものだと勝手に思っている。全体の文脈を見てないから分かんないけど、トーンの強さから、そんな気がしてる。



 これが表題曲となっているアルバム『Coney Island Baby』を、つい最近、大久保宅のレコードプレーヤーで、ベランダで聴いた。とんでもなくいい日だった。


warbear 『warbear』

港が流していた、いい雰囲気のアルバム

 日本のアーティストで、歌ありで、こんなに穏やかな気分で聴ける作品があるのか、としみじみしていた。
 これが終わってしばらくの無音は、このアルバムの続きであるかのように流れていた。のんびりしてたら、2度目の雨が降り出して、慌てて全部を室内に入れた。本当にいい日だった。



 最近、小説を、少しずつ読んでいる。読む機会が増えてきたのは、素早く多く読むことだけが正しいわけじゃないと、ようやく思えたからだと思う。おかげで『モモ』は、物語の最後までたどり着くことができた。
 読むのが遅くて、まだこれしか進んでない、と焦ることが多かったのだけど、途中でやめてもいいんだ、とか、しばらく置いていた本を再び手に取って読んでもいいんだ、とか、不要な拘束をひとつずつ解除してくれる人間が、幸いにも身の回りに多かったので、今すごく楽しく読めている。


 数ヶ月前に別れた彼女、と、最後に会った日、近所のタリーズで、借りてた物をお互いに返し、しばらくして話すこともなくなり、向こうが立ち去ったあと、そのままタリーズで、タブッキの『遠い水平線』という本を読んだ。池田先輩に勧められて、ずっと読めなかった本を、その日、堰を切ったように読むことができた。
 その日の夜に、38℃の熱を出した。


 池田先輩が高校のときの部ログで名前を出していた、福永武彦の『草の花』という小説も、最近読んだ。
 辿り着き得ない理想化された愛と、それが達成されたかのような幸福な時間、再びの挫折、その豊かな移ろいの印象が深く残っている。

 ちょうどそれを読み終えたころに、市毛が出演していたミュージカル『Moulin Rouge』を見に行っていて、奇しくもそれと近しいテーマを見い出していた。理想化された愛は、死のすぐ傍で、ほんのわずかな時間だけ、達成されるのだ、錯覚かと見紛うほどの、ほんのわずかな時間の中で…
 あの話とまともに相対していたらしばらく落ち込んでいたと思う、サティーンがあまりに多くの悲劇を背負い込んだ末、その後も緩やかな悲劇が続いていくように見えたので。
 なんとか大打撃を受けずに済んだのは、サティーンが微塵も悲劇らしい顔をしていなかったという、サティーンの役者の表現の強さがあったことと、終演後の様子から、単純に関係者全体がかなりいい雰囲気なのが分かり、明るさに覆われた苦しい物語が明確にフィクションとして位置づけられたこと(あとは愉快な同行者がいたこと)、のおかげだと思う。

 市毛に感想を送ると言っておいて何も連絡してなかったので、ひとまず手短な感想をここに書いておいた。あとは今度会ったときにでも伝えようと思う。



 最近知り合ったロシア文学科の人に勧められ、今はドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいる。こういう長い作品は、誰かに勧められでもしないとなかなか読めないので、本当にありがたい。
 長い労働をした帰りの電車で少しずつ読んでいて、たまに会うときに、物語の進みを報告している。





 大学受験や、就職活動を取り巻く雰囲気が、本当に苦手だった。

 何かに追われずにいられるような世界との関わり方が、少しずつだけど、分かってきた気がする。ゆくゆくは、それがずっとできたらいいなと思うが、ひとまず、たまにそういう時間があるだけでも、かなり楽になった。
 これを書いている今が、まさに、そう


 時間がただ流れるっていうのは、不可逆を意味しているのではない、方向すらなくただ流れているのであって、だからむしろ、戻っていることも、繰り返していることもあり得るんじゃないかと思う、私は今、そういう時間の中にいる。

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