舞台「アギト」感想


作・演出:桐山瑛裕
主演:江田 剛

この話がどうであれ、受け止めなければ前へは進めないので、私も前へ進むために感想をまとめようかなという気になった。それは多分「TRUMP」シリーズのおかげだと思う。現実逃避のためにTRUMPシリーズを見ていたのだけど、それは期せずして「アギト」に向き合う形になってしまった。

マイナスな言葉を発する意味はあるのかな?と思ったし、好きな役者、好きな演出家の足を引っ張るのではないか?と度々悩んだのだけど、匿名で伝えられる場所もないし、伝えたとしても基本バレてるのでもう大っぴらに書こうじゃないか!と開き直りました。

世界観云々、言葉の使い方が云々というのは、まあ自己研鑽を積んでくれとしか言いようがない。明らかなインプット不足だし、何を描いているのかわからなければ、それの共有もないため、漠然としたぼんやりとした解像度でしか読み取れない。
現実とは地続きでないからこそ、その提示をしなくては観客は追いつけない。地理は?生活水準は?階級制度は?「テーレ」という国は帝国らしいが、その帝国はどういう国なのか。そもそも帝国は皇帝が治める国なのだけど、クーデター後にどのような政治体制に変わったのか、そういった情報がないため物語を掴むのが難しい……ではなく「掴めない」のが問題。
語りすぎてはダメだし、語らないのもいけない。最低限の情報はなければいけない。それが作者や役者の頭にあっても、わかりやすく観客側に提示しなければ物語とは何かという問いに答えることはできない。アニメのような繊細なディテールが画にあるわけではないからなおさらだ。

生活水準はおそらく近世、産業革命がすすんだヴィクトリア朝、エドワード朝くらいのイギリスを模したものだろう。ハウルの動く城やラピュタの世界観に近い。アニメではヴァニタスの手記やカバネリもスチームパンクだ。スチームパンクSFだからといって、世界観の提示を放棄してはいけない理由にはならない。

私は演劇を日常から切り取られた一部、逃避先と思っていなくて、日常から続く直感触の世界の中で、その日常を彩る一瞬の時間であり、劇場という「非日常」は日常のためにあると思っているから、どこまでも「リアリティ」を求める。リアリティというのは現実と同じなのではなく現実にあるかもしれないという錯覚だ。
私がこの作品を好きになれなかった、楽しめなかったのはそのリアリティが欠けていたからなのかなぁ。

作品は無難に「置いていったな」というイメージ。
復讐劇を謳うならもっとカタルシスを込めていいし、絶望に落としていい。受け入れられるというのを狙っていったなと思っている。
私はこの作品を「希望」とも「絶望」とも取れなくて、どっちつかずだったからこそ、わからなくなってしまった。それを決めるのは観客という表現はわかるけれど、それをするためにそうだと信じたい何かも生まれていなかったと思うんだよ。
結果的に主人公の「アギト(ラル)」は死んでしまうのだけど、たった一人残されたノアは、ただ「アギト」にだけ会えればよかったのか。それを希望と呼んでいいのかよくわからなかった。これは感情のないロボットが感情を得るための話の側面もあると思っていて、(どっかで聞いたことあるなと思ったら「小生とアトムの世界列車」でも同じような設定あったな)
結局ノアは何を得て、どういう状況に置かれているのだろうという……つまりは「価値観の共有」が舞台上でなされていなかったから、解釈に困るような作品になったのかもしれないなぁと思うんです。

こんなふうに書くなら見なければよかったとか、小劇場に求めすぎなのかもしれない。けれど、求めてないなら言っていない。求めてはいけない道理はないはずだ。
7000円と3時間という時を使って見にきているなら、私はもっと面白いものが見たいと思った。それができると思っていたから期待していたけど、見事に「やっぱりか」と思ってしまったのが悔しい。

もっとできるはずだろーーー!!!もっと面白いだろ!!!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?