「水の時代」ローマ教会の政治的役割*教皇権と教皇領
5世紀に西ローマ帝国が衰退したあと、西ローマ帝国の領域は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とは違う独自の発展をしました。
キリスト教も、コンスタンティノープルの正教会と分離し、ローマを中心としたカトリック世界が展開していきました。
風の時代から水の時代へ
7世紀から8世紀の約200年は、「水の時代」になります。
以前に「水の時代・大航海時代」について書きましたが、ワンサイクル約800年前も同じく「水の時代」でした。
7世紀からは、その前の「風の時代」に西欧に広まったキリスト教が政治的な権威を持ち始めます。
最初のローマ教皇は、イエスの弟子ペトロ(在位30年頃-67年頃)と言われており、初期のローマ司教たちは「ペトロの後継者」を任じていました。
教皇の権威が増すに従い、自らをもって「イエス・キリストの代理者」と評すようになりました。
現在のローマ教皇の正式名称は「ローマ司教・イエス=キリストの代理・使徒の頭(ペトロ)の後継者・全カトリック教会の首長・西ヨーロッパ総大司教・イタリア首座大司教・ローマ管区大司教かつ首都大司教・バチカン市国主権者」というそうです。
途中1個、2個抜かしてもわからないぐらい長いですね。
教皇の政治的権威
第45代ローマ教皇レオ1世
第45代レオ1世大教皇(在位440年 - 461年)の時代になると、ローマとコンスタンティノープルどちらかの権威が上なのか議論になりました。
教皇が政治的な存在感を見せつけたのは、このレオ1世の時代からと言われています。
452年にローマに侵入してきたアッティラ(フン族とその諸侯の王)を、レオ1世は説得し撤退させることに成功しました。
価値観が違う異教徒の王様が、教皇に従ったのは凄いことです。しかし、455年にガイセリック王(北アフリカにあったヴァンダル王国)がローマに攻め込んできた時は、レオ1世の説得は失敗しました。
ガイセリックは、レオ1世の要望(古代都市を破壊したり住民を殺害したりしない)に同意したふりをして、翌日ローマの門が開かれると二週間にわたりローマを略奪しました。財宝だけでなく、多くの市民が奴隷としてアフリカに連れ去られたと記述が残っています。
【余談】
歴史は勝者によって書き替えられているとはよく言ったもので、このときのレオ1世の失敗も「レオ1世の説得によって、被害を最小限に留められた」と評価されています。
レオ1世は461年に亡くなり、サン・ピエトロ大聖堂内に埋葬された最初の教皇となりました。実質的な最初の教皇と言っても良いと思います。
第64代ローマ教皇グレゴリウス1世
568年にランゴバルド族によって北イタリアに建国されたランゴバルド王国(~774年まで)は、北イタリア・中部イタリアを東ローマ帝国から奪って領地を広げていき、593年にはローマ市を包囲するなどして教皇に圧力を加えました。
※ランゴバルド王国はロンバルド王国ともいい、現在のロンバルディアという地名に残っている。
ランゴバルドは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と敵対していたため、当初はカトリック教会とは友好な関係でした。
第64代ローマ教皇グレゴリウス1世(在位590年 - 604年)は、東ローマ皇帝と対抗するためにゲルマン民族への布教を強化し、アングロサクソン諸王国、フランク王国、西ゴート王国に続き、ランゴバルド王国でもカトリックへの改宗を行い、それにともなって教皇権(ローマ教皇がもつカトリック教会を管理し、信徒を指導する最高司牧権)の確立が進みました。
教皇領(教会国家)
ランゴバルド王国のアイストゥルフ王の時代になると、ランゴバルドはイタリア半島の全域支配を目指すようになり、751年には東ローマ帝国の総督府ラヴェンナを征服し、同じく帝国領のイストリア半島を征服しました。
これによってユスティニアヌス1世(在位527年 - 565年)以来の東ローマ帝国によるイタリア中・北部における支配は終わりました。
ランゴバルド王国の勢いはローマ教会をも圧迫するようになり、人頭税を要求するなどしました。ローマ教皇庁は東ローマ帝国に依存できなくなったため、新たな保護者として目をつけたのがフランク王国でした。
フランク王国は、クローヴィス1世(在位481年 - 511年)がメロヴィング朝を開いた481年から始まりました。
7世紀になると、宮宰(王国の行政および財政を取り仕切る)に就任していたカロリング家のカール・マルテルが実権を握るようになり、751年にマルテルの子のピピン3世(小ピピン)がローマ教皇の支持を得てカロリング朝を開き、メロヴィング朝が終わったという経緯があります。
ピピンの寄進
ローマ教皇の力を絶対的なものにしたのは、756 年の「ピピンの寄進」以降だと思います。
ランゴバルド王国はラヴェンナを攻撃したあと、イタリア半島統一をめざしてローマに迫っていました。
第92代ローマ教皇ステファヌス2世(イシュトヴァーン2世)は、ピピン3世に救援を求め、ピピンは2度の戦いによりランゴバルド族を破り、奪還したラヴェンナを教皇に献上しました。
このステファヌス2世は、イタリア有名貴族オルシーニ家出身の教皇です。
(オルシーニ家の詳細は別記事で)
ピピン3世はローマでも寄進を行い、彼の子のカール大帝(シャルルマーニュ)も774年に寄進を行いました。
教皇は、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入するという約束と引き替えに、カール大帝と、その弟のカールマン1世 に塗油の秘蹟を施したと言われています。
カロリング王家による寄進が続き、最盛期にはローマを中心に中部イタリアに広大な教皇領を形成しました。
イエスが何も財産を持たなかったように教会は信仰の拠り所にすぎなかったのですが、ローマ教皇庁が領土を持ったことで教会の世俗化につながったと見られています。
教皇領から得られた富や、十分の一税、信者の寄付、後に免罪符による収入などを得ただけでなく、教皇は世俗の国王や領主と同じように政治上、経済上の支配権を行使するようになり、また各教会もそれぞれ教会領を持ち、大司教など高位聖職者はその領主として豊かな収入を得ました。
カール大帝の戴冠
しかし、ランゴバルド王国からローマへの侵略は止むことはなく、第94代ローマ教皇ステファヌス3世(在位768年 - 772年)は、ランゴバルド王デシデリウスの脅迫を受け、フランク王国と縁を切るトラブルに発展しました。
その頃、カール大帝は父ピピン3世の死後、ランゴバルドの王女デシデラータと最初の結婚をし、フランクとランゴバルドは良好な関係を築いていましたが、カール大帝の結婚は1年間(770 - 771)で終わりました。
続く、第95代 ローマ教皇ハドリアヌス1世(在位772年- 795年)の在任中に、教皇領ペンタポリス公国がランゴバルドに侵略されました。
カール大帝と弟のカールマン1世の間で続いていた領土紛争も最高潮に達しており、771年12月にカールマン1世が亡くなると、ランゴバルド王デジデリウスはカールマン1世の妻子を保護したうえで、教皇にカールマン1世の息子に「フランク王」の称号を与えるよう迫りました。
デジデリウス王は、カール大帝が娘のデジデラータを拒否したことからカール大帝とは疎遠になっていましたが、代わりにカールマン1世を支援するようになっていたようです。おそらくカールマン1世の遺児を通して、フランク王国に政治介入するつもりだったのでしょう。
教皇はカール大帝に援助を求め、カール大帝は大軍を率いてランゴバルド王国を攻め、たちまちに征服しました(774年)。
カールマン1世の妻子のその後はわかりませんが、カール大帝は彼らをどこかの修道院に追放したのだろうと考察されています。
その後、カール大帝はペンタポリスと占領したロンバルディア州の領土の一部を教皇庁に返還し、その見返りに教皇はカール大帝に「ローマ貴族」の称号を与えました。
カール大帝は、治世を通じてほぼ絶え間なく戦争をしていた人物でしたが、大変信仰心に篤く、征服した土地でキリスト教への改宗を進めました。
一方で、ザクセン戦争中に強制改宗に反抗したザクセン人数千人の大虐殺(782年フェルデンの虐殺)を行ったという史実は、カール大帝の治世の汚点となっています。
カール大帝は、53歳になった800年に第96代ローマ教皇レオ 3 世(在位795年- 816年)によってローマ皇帝として戴冠しました。
前年、レオ3世が暗殺者に襲われていたところをカール大帝配下の役人に救出され、カール大帝の保護を受けてローマに戻った後、カール大帝から受けた恩に報いることや、726年の東ローマ皇帝による「聖像禁止令」以来、ローマ教会とコンスタンティノープルの東方教会が対抗している経緯(イコノクラスム論争)、およびローマ皇帝の座が797年より空位となっていた事情から、カール大帝に帝冠を授けることが決定されました。
これは、教皇権の優位性の強化でもありました。
戴冠は12月のクリスマスの日、サン・ピエトロ大聖堂でのミサの最中に突然行われました。カール大帝が事前に知っていたのか知らなかったのか、歴史家の間では今も議論されているそうです。
カール大帝の戴冠によって、ローマ教会が東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立がなされただけでなく、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素が融合した文化圏が成立したことを意味しました。
また世俗権力と教権の二つが並立する、独自の世界の成立でもありました。
カール大帝の話のネタは尽きないですが、カール大帝の死後843年にヴェルダン条約でフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・イタリアの国々が誕生していきました。
グレゴリウス改革(叙任権闘争)
11世紀(占星術では「地の時代」)になると、教皇グレゴリウス7世(在位1073年-1085年)によって教会改革が行われました。
グレゴリウス7世は改革の一環として、神聖ローマ帝国皇帝を頂点とした世俗権力の聖職者叙任権を否定しました。
聖職者叙任権は、神聖ローマ皇帝以下の国王・領主らがローマ=カトリック教会の聖職者を任命する権利のことです。
当時、フランスのクリュニー修道院(ベネディクト会)でベネティクト派の質素で規則正しい修道士の生活を復活させる改革運動が起きていました。
それに刺激を受けたグレゴリウス7世は、俗権による支配が教会堕落の原因であると考え、聖職者叙任権を教会の手に奪回する運動を進めました。
グレゴリウス7世は、俗権による聖職者叙任権ではなく、喝采(称賛)によって選出された数少ない教皇でした。
当時のローマ教皇の選出は、3つの選挙方法(精査、妥協、称賛)によって行われました。称賛は、正式な投票を行わずに出席した選挙人全員の満場一致で選出するというものでした。これは事前の相談や交渉なしに行う必要があったため、聖霊から出たものとみなされ、「準霊感」とも呼ばれました。
1073年、ラテラン大聖堂で第156代 ローマ教皇アレクサンドル 2 世の納骨が執り行われていたとき、大勢の聖職者と民衆から「ヒルデブラント(グレゴリウス7世の本名)を教皇にせよ!」という大声での抗議が起きました。
同日、ローマ聖職者の正当な同意を得て、民衆の度重なる拍手の中、集まった枢機卿によって法的な形式で、グレゴリウス7世は選出されたそうです。
しかし、グレゴリウス7世の世俗権力の聖職者叙任権の否定は、教皇と皇帝の政治的な対立に発展し、中世ヨーロッパに重大な影響を与えることになりました。叙任権闘争
グレゴリウス改革では、ローマ教皇が皇帝を退位させる独占的権限を持っていると主張しました。ローマ教会は神のみによって設立されたので、教皇の権力が唯一の普遍的権力であると宣言したのです。
また教皇のみが教会員を任命・解任したり、教会員を移動させたりできるとの布告を下しました。
グレゴリウス7世の改革に対し、ドイツの帝国教会政策(皇帝が聖職者を任命する)を持って反対したのが、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世でした(後述)。
オットー1世の教会政策
帝国教会政策は、神聖ローマ帝国の初代皇帝であるオットー1世(在位936-973年)によるもので、カトリック教会を王政の手段として利用しました。
オットー1世は、東フランク王国ザクセン朝の王で、962年に第136代ローマ教皇ヨハネス12世(カール大帝の子孫)によって戴冠し、神聖ローマ帝国が始まりました。
カール大帝から始まるローマ教会の皇帝として、約40年ぶりの戴冠でした。
オットーの戴冠も前述のピピンやカール大帝と同じように、ランゴバルド族の侵入で窮地に陥った教皇を救った見返りとして与えられたものでした。
新皇帝となったオットー1世は、イタリアの大部分を教皇領として寄進しましたが、同時に「皇帝に忠誠を宣誓してからでなければ、教皇職には叙任されない」と定めました。
ゲルマン社会では、教会はそれを創設した有力者の私有物であるという伝統的観念がありました。オットー1世は自分自身を教会の守護者とみなしており、「神聖な権利」により、世俗の職に独身の聖職者、主に司教と修道院長を配置しました。
オットー1世は聖職叙任権を行使し、自分に従いやすい聖職者を政治に引き入れることで、諸侯勢力を抑えることを目指したと考えられています。
【余談】そういえば、チャールズ英国王は「信仰の守護者」として宣誓されましたね。
ヨハネス12世の在任中は、ローマ教皇が堕落した「鉄の時代」と呼ばれたそうです。オットー1世は、ヨハネス12世を廃位し(963年)、教皇以下の聖職者の任免権を皇帝が握る、帝国教会政策によって帝国を治めていきました。
この状況からの脱却を目指したのが、前述のクリュニー修道院による修道院改革運動、グレゴリウス7世の教会改革と叙任権闘争だったのです。
カノッサの屈辱
ハインリヒ4世(1050年11月11日 - 1106年8月7日)は、1056年に父ハインリヒ3世が急死したため、母アグネスが摂政となり6歳で即位しました。
12歳のときにはケルン大司教アンノ2世に誘拐され、アンノの手で育成されるなど苦難の幼少期を経て、成年に達した1065年から親政を始めました。
配偶者は、サヴォイア公オットーの娘ベルタ・ディ・サヴォイア。
ハインリヒ4世は王権の強化につとめましたが、ドイツ・イタリア・ブルグンド(北フランス)の広大な領土では有力な貴族(封建領主)の中に不穏な動きが続き、不安定な統治が続いていました。
ハインリヒ4世は、オットー大帝以来の帝国教会政策を維持して、領内の司教などの聖職者の任命権を行使し、教会を通じての統治を続けていたところに、1075年にグレゴリオ7世が俗人による聖職叙任の禁止を決定しました。
しかし、ハインリヒ4世は教皇の布告を無視して叙任権を行使し、自らの意思に沿う司教を任命し続けていました。
教皇は叙任権は教会にあることを通達しましたが、ハインリヒ4世は聞き入れず(叙任権闘争に発展)、逆に「グレゴリウス7世は不正な方法で教皇に即位した」として教皇の廃位を宣言しました。
それに対し、グレゴリウス7世はハインリヒ4世に破門を通告。ハインリヒ4世が破門されたことを知ったドイツの諸侯たちは、チャンスとばかりにハインリヒ4世に対して反乱を起こしました。ランゲンザルツァの戦い
1077年1月、ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世が滞在していたトスカーナ女伯マチルダの居城カノッサ城に謝罪に赴きます。
しかし教皇が面会を拒否したため、ハインリヒ4世は城の前で修道士の服装に身をつつんで、雪が降る中3日間に渡り断食をして教皇に赦しを求めたのでした。
(ハインリヒ4世が雪の中で裸足で食事もなしに3日間立っていたという記述は、後世に脚色されたものといわれているそうです)
このとき、ハインリヒ4世の妻ベルタと幼い息子コンラート(2歳)を含む側近の多くも靴を脱いで立っていたらしいです。
ハインリヒ4世が妻子を連れていたわけは、ドイツに残しておくと危険だと判断したからのようです。それだけ敵だらけだったわけですね。
教皇はハインリヒ4世を信用していませんでしたが、城主マチルダの仲介によりハインリヒ4世を許しました。カノッサ城の礼拝堂で聖体拝領を行い、破門は正式に終了しました。
ところが、1080年にハインリヒ4世は、再び叙任権をめぐってグレゴリウス7世と対決しました。
ハインリヒ4世の軍勢がローマを包囲したため、教皇は命からがらローマを脱出し、1085年にイタリア南部のサレルノで客死しました。
叙任権闘争は、叙任権が教皇にあることを定めたヴォルムス協約が成立する1122年まで続きましたが、「カノッサの屈辱」の一件は、神聖ローマ皇帝がローマ教皇に屈服したことで、ローマ教皇権の優位が証明されたとして、後世に語り継がれることになったのです。
【余談】
カノッサ城主マチルダ伯爵夫人については、予定しているイタリア・ルネサンスについての記事にも出てきますので、覚えておいてくださいね。
この記事も長くなってしまいましたが、教皇権と教皇領について参考になれば幸いです。ではまた。
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