見出し画像

9世紀フランス*ヴァイキングのロロと豊かなノルマンディー

今回の記事は、前回の記事に書いたヴァイキングのロロについてです。
私は捏造はしませんが、妄想モードは入っています(笑)

ロロについてだいぶ前に調べていました。
彼は9世紀にフランスとイングランドを結ぶ重要な役割を果たしました。
おそらく本人は、全くそんなつもりはなかったでしょうけれど。



ロロについて

ロロ(Rollo)は、洗礼名ロベール(あるいはRobert)で、彼の子孫と区別するためにロベール1世と数えられることもあります。
ややこしいので、私の記事ではロロで統一しますね。


ロロ


ロロは、ノルウェー人ともデンマーク人とも言われています。
ノルウェーのハーラル1世(ノルウェー王)の近親者で、伝説的なバイキングのモア伯爵ラグンヴァルド・エイステインソン息子フロルフルという説があります。


フロルフルは「馬が運ぶことができないほど大きかった」ため、「ガンゲル・フロルフ」(「徒歩」を意味する)というあだ名がつけられたそうです。

ロロも大変ガタイが良く(身長は2 メートルを超え、体重も140キロを超えていた)、すぐに馬を乗り潰してしまい徒歩で移動したため、歩きのフロールヴ(古ノルド語: Ganga-Hrolf)とか、徒歩王ロロとあだ名されていたという点で一致します。

ロロが誕生した年ははっきりとわかっておらず(846年頃)、933年に80歳ぐらいで亡くなりました。



ある夏(874年頃)、ロロはノルウェーのハーラル王の怒りを買い国外追放に処せられたそうです。
追放後、彼はヘブリディーズ諸島へ赴いた後、フランス北岸へ侵入したと日本語Wikipediaに書かれています。

この説は、13世紀のアイスランドの総督で詩人・歴史家でもあったスノッリ・ストゥルルソンによって書かれたノルウェー王朝の歴史『ヘイムスクリングラ』によるものです。

今世紀になって『ヘイムスクリングラ』が書かれた背景に、当時のノルウェーとスコットランド王によるヘブリディーズ諸島及びマン島などの所有権の争いがあり、ノルウェーの主権の正当化する著者の意図があったと見られており、すべてが正しいわけでもなさそうで注意が必要です。


*****

私が別に読んだ記事では、ほかに二つのストーリーがありました。
ひとつは、ロロは追放ではなく命令されて、スコットランドへ行き、帰り道にイングランドを攻撃し、そのあとフランスへ向かった説。
もうひとつは、ロロはデンマークに亡命し、それからイングランドへ向かったあと、フランスを攻めた説でした。

最終的にフランス北岸に上陸するのは同じです。
つまり、「ロロ」という人物についての記録がほとんど無いということでもありますよね。


下の図を見るとわかるように、ロロがノルウェーのヴァイキングだった場合は、Wikipediaが言うようにシェットランド諸島経由で、ヘブリーディーズ諸島へ向かうルートを取ったと思われます。

あるいはロロがデンマークに亡命し、デンマークのヴァイキングと合流してイングランドへ行った説も下図から立証できる気がします。


ロロはなぜヘブリディーズ諸島へ向かったのか

ロロはノルウェーの権力闘争に巻き込まれた可能性があります。

スノッリの『ヘイムスクリングラ』によれば、父ラグンヴァルド・エイステインソンは、ハラール1世の二人の息子によって屋敷に放火され、60人の部下とともに殺害されたと言われています。

父親の死により、ロロはヘブリディーズ諸島の親戚の元に亡命したらしいのです。


ヘブリディーズ諸島


スコットランドへのヴァイキングの攻撃は、8世紀末ごろに始まりました。

ヘブリディーズ諸島には、9世紀以前からノース人(ノルウェー人)が居住し、先住のゲール人と混血し(ノルウェー・ゲール人)、9世紀から13世紀にかけてマン島、ヘブリディーズ諸島、クライド諸島からなるマイルズ王国を形成していました。

853年から1170年までアイルランドのダブリンには、ヴァイキングが建国したダブリン王国もありました。
ダブリンは、西ヨーロッパ最大の奴隷港として栄えていました。
ここの奴隷貿易は、白人を中東に輸出していました。(金髪の白人女性は人気があり買い手が多かったそうです)


ノルウェー人が定住したスコットランド、アイルランド、マン島の地域


イーマル王朝

マイルズ王国ならびにダブリン王国を支配していたイーマル朝は、伝説のヴァイキングと言われるノルウェーの王イーヴァルの子孫でした。

イーヴァルは、大異教徒軍の最高指導者(骨なしイーヴァル、873年頃没)だったとみなしている説があります。
ラグナル・ロズブロークの物語』によれば、彼は伝説のヴァイキングラグナル・ロズブロークの息子ということなんですが・・・。

イーマル王朝


大異教徒軍については以下の記事の後半に少し書きましたが、865年頃から878年までの間、数回にわけてイングランドを侵略しました。
大異教徒軍の襲撃は、それ以前にヴァイキングがイングランド沿岸で行っていた略奪行為と異なり、はるかに大規模でイングランドの広範囲を征服するのが目的でした。


年表では、イーヴァルは865年にヘプタキー(七王国)のイースト・アングリアに進攻し、867年にノーサンブリア王国のエッラ王を殺害したあと、大異教徒軍は1年以上にわたりヨークに滞在しました。

イーヴァルと兄弟のハルフダン・ラグナルソンの軍は、ノーサンブリア王国へ北進し、アングロサクソン人の内戦の混乱に乗じて、866年または867年にヨークを占領しました。

大異教軍は、874年にはマーシア王国を征服しました。
このあと大異教軍は二手に分かれ、ハルフダン・ラグナルソンの軍は北上しました。


ヨルヴィーク(スカンジナヴィアのヨーク)

ヨーク一帯は「ヨルヴィーク」(古ノルド語: Jórvík ) と呼ばれるヴァイキング支配地(~965年まで)になり、ヨークは北欧との貿易都市になりました。
アングロサクソン年代記によると、ハルフダン・ラグナルソンがヨルヴィークの初代王(~874年まで)でした。


ヨルヴィーク(ピンク色)


ハルフダン・ラグナルソンは、877年にダブリン王国イーヴァル朝の政争で殺害されました(後述)。


スノッリ・ストゥルルソンの『ヘイムスクリングラ』によると、イーヴァルの父親はモア伯爵ラグンヴァルド・エイステインソンであったと言われています。
つまりイーヴァルとハルフダン・ラグナルソンとロロは兄弟ということになるんですよね。

*****


870年頃にイーヴァルはダブリン王国の支配者になりましたが、873年頃にオークニー諸島で起きたヴァイキングの反乱を鎮めるハフルスフィヨルドの戦い(872年から900年)で戦死したと言われています。

イーヴァルは戦死したけれど戦いには勝利したので、ハーラル1世から叔父のシグルド・エイステインソンにオークニー伯爵位が与えられました。

これにより、ハラール1世はノルウェーを平定した歴史的な最初の王とみなされました。敗者の多くは、アイスランドに移住したそうです。

ヘブリディーズ諸島のノルウェー王による支配が正式化されたのは、マグヌス3世の征服による1098年でした。

ハフルスフィヨルドの戦い


伝説によればイーヴァルは、攻撃を受けやすい場所に自分を埋葬するように命じ、この地に来る敵は不運に見舞われるだろうと予言しました。
のちにウィリアム征服王(ロロの子孫)がその墓を壊し、ウィリアム征服王は上陸侵攻を続け、勝利を収めたという話もあります。

ウィリアム征服王


ロロと大異教徒軍の兄弟

大異教徒軍の最高指導者だった骨なしイーヴァル、ハルフダン・ラグナルソンがロロの兄弟であれば、ロロが大異教徒軍に参加していた可能性は大いにあると思います。

大異教徒軍は、デンマークに居住していた人々を中心にスカンディナビア半島やフリースラント、西フランク王国など各地のヴァイキングによる大連合軍でした。

大異教徒軍とは
865年から878年にかけて、イングランドへ侵攻しノーサンブリア王国、イースト・アングリア王国を相次いで滅ぼしイングランドの東半分を征服しました。

アルフレッド大王率いるウェセックス王国と繰り返し戦い、878年、エディントンの戦いで破れた後、指導者の一人グスルムとアルフレッド大王との間の協定に基づき、ウェセックス王国とヴァイキングの間でイングランドを二分する勢力を確立した。
880年代までに軍勢は衰退し、イングランドから大陸へ転進した。


大異教徒軍はそれ以前の略奪行為で、イングランドの地理を把握していたのでしょう。
フランク王国でも、ヴァイキングは内陸部まで侵入した際に地理を把握し、数年後に大軍による襲撃と町の占領を行っています。


ロロのもうひとりの兄?ハルフダン・ラグナルソン

RPG『アサシン クリード ヴァル​​ハラ』では、ハルフダン・ラグナルソンは兄弟たちと登場します。

ハルフダン・ラグナルソンは、デンマークのバイセジュ(バッグセック)率いる大夏軍を援軍に加えて、ウェセックス王国に侵攻しました。

アングロサクソン年代記によれば、871年の間にアッシュダウンの戦いなど9回の戦闘が繰り広げられ、そのほとんどでヴァイキングが勝利したものの、最終的にはウェセックスのアルフレッド大王と停戦を結びました。


アルフレッド大王の父エゼルウルフは、フランス王シャルル2世の娘ジュディスの最初の夫でした。

*****


ウルスター年代記によれば、イヴァールの死後、ダブリン王国を統治していたオイステイン・マック・アムライブを875年に殺害した、アルバン(Albann)という人物がハルフダン・ラグナルソンと同一視されています。

オイステインは、ハルフダン・ラグナルソンの甥と見られており、この殺人は家族間の権力争いだったという説があります。

*****

ダブリン


ハルフダン・ラグナルソンは877年、アイルランド領有権を主張しようとして ストラングフォード湖の戦いで死亡しました。

ストラングフォード湖の戦いは、アイルランド年代記では「美しい異教徒」(先住のヴァイキング)と「暗い異教徒」(新しく来たヴァイキング)という2つのバイキングのグループの間で戦われたと記録されています。

「暗い異教徒」の王としてハルフダン・ラグナルソンと同一視される人物「アルバン」が描かれ、「美しい異教徒」のリーダーはダブリンの王バリッド・マク・イマイール(イーヴァルの息子)であると年代記に記されているそうです。


デーン人(ヴァイキング)の居住地「デーン・ロウ」

マーシア王国の征服後、分かれて南下したほうの大異教徒軍のリーダー、グズルムは、878年にエディントンの戦いでアルフレッド大王に敗れ、ウェドモア条約を結びました。

グズルムは、デンマーク王ホリック2世の甥だったと言われています。
彼はキリスト教の洗礼を受けて(洗礼名アゼルスタン)、アルフレッド王によりイーストアングリア国の王位に就きました。(890年に死去)

11世紀初頭の歴史家デュドン・ド・サンカンタンによれば、 グズルム(アゼルスタン)とロロは知り合いだったとのこと。


878年のグスルムの洗礼を描いたビクトリア朝時代の絵画


アルフレッド大王は、デーン人(デンマーク人)の居住を認め、デーンロウ地域を割譲しました。

これにより、アルフレッド王が統一した地域(下図の茶系部分)とヴァイキングが支配するデーンロウに分かれることになります。

デーンロウの地域が思ったよりも広くて「軒先貸して家(国家)まで取られるパターンじゃないの?」って思ってしまいました(苦笑)


デーンロウ(ピンク色)は結構広い


デーンロウ統治下のデンマーク領マーシア(現在のイーストミッドランズ)には要塞化された城塞を持つ五つの自治区(レスター、リンカーン、ダービー、ノッティンガム、スタンフォード)が作られましたが、916年から917年にかけて、マーシアのエセルフレドとウェセックスのエドワード長老がイングランドの再征服を行い、デンマークによる五つの自治区の支配は失われました。五つの行政区の占領

のちにロロが、ノルマンディー公になったとき、デーンロウからノルマンディーへ大量の移住者がありました。


ロロのフランス侵略

876年に、ロロは100隻の船団を率いてセーヌ川に入り、ルーアンを占領したと言われています。
これは、ランスのフロドアード(893/4年 - 966年3月28日)と呼ばれたランス大聖堂の司祭の記録によるそうですが、実際は885年のパリ包囲戦以降ではないかと見直しされているようです。


ルーアン大司教のギーとロロ


パリ包囲については下の記事に書きました。

*****


ルーアンは、841年にもヴァイキングのオスカル(アスゲイル)の攻撃を受けていました。これがルーアンの最初の被害でした。

ロロは、パリ包囲戦のあと886年から890年にかけてノルマンディー地域のバイユーへ向かったようです。
890年にヴァイキングがバイユーを襲撃し、街の大部分破壊された記録があり、ロロが関わっていたようです。

このとき、ロロはバイユーのベレンジャー伯爵を殺害し、娘のポッパを誘拐して妻にした(嫁さらい)と言われています。
ロロとポッパの間には、少なくとも二人の子どもが生まれ、長男ギョーム1世(ウィリアム・ロングソード)、長女ジェルロック(のちにアデルと呼ばれる)がいました。

ウィリアム・ロングソードからは、イングランド・プランタジネット朝に繋がる子孫が生まれ、ジェルロック(のちにアデル)からはフランス・カペー朝の子孫が生まれました。


*****

ロロはバイユーを襲撃したあと、ルーアンに定住していたようです。
911年にロロは、ブルゴーニュの遠征を終えシャルトルにむかいました。

シャルトルは、858年と886年にヴァイキングの攻撃を受けた記録があり、858年の攻撃では、世界遺産であるシャルトル大聖堂の場所にあった教会が放火され、聖職者も多数死亡したそうです。

シャルトル大聖堂は聖書のモチーフがこってりで、カロリング朝の地下礼拝室や迷宮、黙示録の場面の彫刻もあり興味深い教会です。いつかまた詳しく書きたいです。


886年の攻撃は、885年のパリ包囲に加わっていたジークフリートによるものでした。これはうまくいかず、ジークフリートは1500名の兵士を失いましたが、彼は生きておりフリースラントに向かったそうです。


ウール川

ロロはウール川の両岸を支配下に治めましたが、度重なるヴァイキングの攻撃によりシャルトルは要塞化していたため、攻め入ることが難しくなっており、ロロ軍の大半は降伏しました。
ロロは少数の仲間とともにルーアンに戻ったと言われています。


ノルマンディー公国の始まり

シャルトルで勝利した西フランクシャルル3世(在位 893年 - 922年)は、サン=クレール=シュール=エプト条約を結び、ロロはセーヌ川河口とルーアン周辺の土地を与えられました。

当初シャルル3世はロロにフランドル(フランダース)を提案しましたが、ロロはフランドルは湿地が多く耕作不可能な土地であるとして拒否したそうです。
(ロロは以前にフランドルを略奪したので知っていました)

新しい領地と引き換えに、ロロはキリスト教の洗礼を受けることと西フランク王国に忠誠を誓い、セーヌ川河口を他のヴァイキングの襲撃者から守ることを約束しました。

シャルル3世の嫡女ジゼルとロロが結婚したということになっていましたが、現在ではジゼルではなかった(シャルル3世の庶子だったかも)という発見もあるようです。


オートノルマンディーの位置


ロロの領土は、現在のアッパー・ノルマンディー(オートノルマンディー)の北部からセーヌ川までの範囲でした。
この地域は、ローマの支配以前はベルギーから移住したケルト民族が多く住んでいました。

オート・ノルマンディーは、古代スカンディナビア半島からの移住者が多いとされる。
また、アルザスはゲルマン系の影響が濃く、ブルターニュはケルト系やアングロ・サクソン系の影響が濃い。
したがって、オート・ノルマンディー、アルザス、および、ブルターニュは、フランス国内でも金髪の出現率が高いといわれる。

ノルマンディーの紋章


ロロは、サン=クレール=シュール=エプト条約のあとも略奪遠征を続け、領土を拡大していき、最終的に彼の土地はセーヌ川の西にまで広がりました。
貴族階級以外のノルウェー人が集団移住し、ノルマン人コミュニティが出来て、ノルマンディー公国を形成しました。

*****

919年にラグノルドというヴァイキングがナントを占領しました。(~930年まで)
922年、シャルル3世王はクーデターにより追放され、ロロとラグノルドに支援を求めました。923年のソワソンの戦いに、ロロは兵士を送ってシャルル3世に加勢しました。

ラグノルドが指揮する軍は、フランスの領主たちに阻まれ、ソワソンに到着することができなかったと言われています。
シャルル3世は敗れて捕虜となり、929年に幽閉のままペロンヌ城の塔で亡くなりました。(毒殺の可能性)


シャルル3世を捕らえた新しいフランク王ラウールは、ロロとの戦いを避けてロロにベッサンペイ ドージュイエモワの領土を新しく割譲しました。

****

ロロが拠点にしたルーアンは、フランスで最も高い塔を持つルーアン大聖堂があり、歴史的に重要なノルマンディー地域の都市です。

温暖な気候と酪農地帯として有名で、フランス国内の牛肉および酪農製品のおよそ25%はノルマンディーで生産されているそうです。
海があるので海産物も豊富。ムール貝や帆立貝などの養殖も行われており、川においてはサケなども獲れるとか。

農業は、リンゴ、洋ナシが多く生産され、シードル(りんご酒のサイダー)の名産地であります。




ロロは、927年頃に息子ギョーム1世(ウィリアム・ロングソード)にノルマンディー公国を譲り、933年に亡くなりました。

しかし、フランスを震え上がらせたヴァイキングだったロロが、イギリス王室の先祖になり、フランス王室にもデンマーク王室にも血を繋いだというのは、壮大なロマンですね。


長くなりましたので、今日はこのへんで。
ロロの息子ギョーム1世からウィリアム征服王までのストーリーは、折りを見て書こうと思います。

最後までお読みくださいましてありがとうございました。ではまた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?