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8世紀イギリス7王国時代*エグバート&オファ&カール大帝

割引あり

あるお家のことを書いている途中なのですが、超々長~~~い記事になってしまうので、分割してUPしていきたいと思います。
よかったらお付き合いください。

また、あるお家の血筋のことを書くとXではシャドウバンされがちなのがわかったので、念のため後半は有料にしました。ご了承ください。

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現在のイギリス、正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」United Kingdom of Great Britain and Northern Irelandと言いますが、この名称になったのは1927年4月12日からです。

その前は、1801年に「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」、さらにその前の1707年は、イングランド王国およびスコットランド王国を統合して「グレートブリテン王国」でした。

遡って国の始まりは、イングランドの七王国の一つだったウェセックス王国の王エグバートEcgberht(770/775 – 839)がイングランドを初統一した827年になるそうです。




5世紀*風の時代*のゲルマン人大移動の後、ブリテン島に「七王国時代」が始まりました。
これは、西ローマ帝国が崩壊し、ホノリウス帝がブリタンニアを放棄(409年、End of Roman rule in Britain)したことも大きく影響したと思います。

七王国とは

アングロ・サクソン七王国( Heptarchy、ヘプターキー)とは、中世初期にグレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人が同島南部から中部にかけての地域に建国した7つの王国のこと。
この時代をまた「七王国時代」とも呼ぶ。
「ヘプターキー」という言葉は古代ギリシア語の数詞で「7」を指す「ヘプタ(ἑπτά)」と「国」の「アーキー(ἀρχή)」を足した造語である。

実際には7つのみではなく、多数の小国家群がに林立していましたが、次第にその中の有力な国家が周囲の小国を併呑していきました。

七王国
・ノーサンブリア王国 Northumbria
・マーシア王国 Mercia
・イースト・アングリア王国 East Anglia
・エセックス王国 Essex
・ウェセックス王国 Wessex
・ケント王国 Kent
・サセックス王国 Sussex

この王国群の中から後のイングランドが形成され、その領土は「アングル人の土地」という意味で「イングランド」と呼ばれることとなりました。

この記事では、ウェセックス王国とマーシア王国について書いていきます。

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ウェセックス王国

ウェセックス(Wessex)の名は、『西サクソン(West Saxon)』に由来します。

495年にイングランドに上陸したサクソン人セルディックCerdic(日本語のwikiではチェルディッチになっている)が、テムズ川上流地域にウェセックス王国を築いたと言われています。

サクソン人またはザクセン人(英: Saxon, 独: Sachsen)は、北ドイツ低地で形成されたゲルマン系の部族である。
現在のドイツのニーダーザクセン地方を形成する主体となり、またイングランド人の民族形成の基盤を成した。


ウェセックス家

ウェセックス王国は6世紀に成立、イングランドとしての国の形成ができる9世紀まで続き、またその後も「ウェセックス」の名は伯爵領として1016年から1066年まで一時的に使われた。

9世紀にエグバートはイングランドを統一し、それ以降エグバートの子孫がイングランド王位を継承した。
11世紀にはデンマーク王家がイングランド王位を得たが、ハーデクヌーズ(ハーザクヌート)の死後、異父兄のエドワード懺悔王が即位し、イングランド王位は同家に戻った。
しかし、1066年のエドワード懺悔王の死後、義兄ハロルド2世が即位、その後わずかな期間エドガー・アシリングが王位を称するも、同年ノルマンディー公ギヨーム2世がウィリアム1世としてノルマン朝を創設し、同王家は断絶した。


ウェセックス伯の称号は、1999年に故エリザベス2世の三男エドワードの登場により復活し、現在はチャールズ国王の甥(国王の弟エドワードの子)ウェセックス伯爵ジェームズ・アレクサンダー・フィリップ・テオ・マウントバッテン・ウィンザー(James Alexander Philip Theo Mountbatten-Windsor, Earl of Wessex, 2007年12月17日 - )さんが継承しています。


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ローマ・カトリックの再上陸

ローマ帝国が引き上げたあとローマ・カトリックは廃れ、流入してきたアングロサクソン諸部族はゲルマン神話に基づく信仰だったため、キリスト教世界からみればイングランドは蛮族の地でした。

(しかし、ローマ帝国の支配も受けず、アングロサクソンの侵入も受けなかったアイルランドではケルト系キリスト教が続いていました)

ウェセックス王国にキリスト教を伝道したのは、597年にカンタベリーのアウグスティヌスがケント王国で最初の改宗を行った後、634年にやってきたフランク人のビリヌス(ベネディクト修道会)でした。

635年、西サクソンの王キュネギルス(シネジルス)は改宗し、ビリヌスから洗礼を受けています。

聖ビリヌス(ドーチェスターの初代司教)


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マーシア王国

それからまもなく、アングル人が作ったたマーシア王国の勢力拡大に押されて、ウェセックス王国はマーシア王国の支配下に入りました。

アングル人(英:Angle ; 羅:Angli)またはアンゲルン人、アンゲル人は、西方系ゲルマン人の一種族であり、ユトランド半島南部に位置するアンゲルン半島(ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の一部)の一帯に住んでいた人々を指す。
その一部は6世紀頃にイングランド北東部に移住して幾つもの王国を建国し、後のアングロサクソン人の祖先となった。

マーシアは、古英語の Merce(辺境人、もしくは進軍する人々)からマーシアと呼ばれるようになったと言われています。

マーシア王国の勢力領域。濃緑色部分は6世紀頃の支配地域


8世紀、マーシアから二人のブレトワルダ(七王国時代、最も勢力の強かった王のこと)が出ました。
ひとりは、エゼルバルド (在位:716 - 757) と、もうひとりはオファ (在位:757 - 796)と言います。

紋章学は中世盛期まで発展しなかったため、マーシアの古い紋章は存在しませんが、マーシアの象徴としてのサルティア(聖アンドリュー十字)は、オファ王(757年ー796年)の時代に使用されていたそうで、13世紀までにサルティアはマーシア王国の紋章とされるようになりました。

マーシア王国国旗


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マーシアの王オファ

オファ王はキリスト教徒の王として、同じキリスト教徒の王であるフランク王国のカール大帝Charlemagneにかなり親近感を抱いていたようです。

オファ王はカール大帝に倣い、多くの教会や修道院を設立しました。

カール大帝の顧問をしていた修道士アルクィンは、オファ王の敬虔さと神の命令の下でマーシア王国を導いた彼の努力を称賛しています。



カール大帝とオファ王を結んでいたのは、第95代 ローマ教皇ハドリアヌス(在任772年ー 795年)でした。

786年、教皇アドリアヌスは教皇使節団をイングランドに派遣し、教会の状態を評価し、イングランドの王、貴族、聖職者の指導のために教会法(教会令)を提供しました。

カール大帝は、オファ王を「兄弟」と親しく呼び、フランク王国とマーシア王国には交易も行われていました。


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当時、オファ王は、カンタベリー大主教だったイェンバートと対立していました。イェンバートはケント王国の著名な家族の出身でした。

オファ王とイェンバートの対立には、いくつかの理由があります。
そのころケント王国はオファ王に従属していましたが、776年にイェンバートが反乱をけしかけたことがありました。

オファ王はカンタベリー主教区に与えた助成金を取り消し、787年には教皇ハドリアヌスを説得し、リッチフィールドに大司教区を設立しました。
これは、カンタベリー大主教イェンバートの権力を弱めるためでした。


リッチフィールド大主教
オッファの治世中のイングランドの教区。
リッチフィールド大司教区とカンタベリー大司教区の境界は太字で示されている。


上の地図を見ると、分割される前のカンタベリー主教区は大変大きかったことがわかりますね。
オファ王に限らず、王様は聖職者が権威を持つことを恐れたはずですから、主教の力を分散させたい気持ちは、まあ理解できます。


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カール大帝とオファ王の関係

カール大帝とオファ王は、お互いの子どもたちを結婚させて強固な同盟関係を築こうとしていたようです。

カール大帝は息子の一人とオファ王の娘の結婚を提案したのですが、オファ王のほうは自分の息子とカール大帝の三女ベルタの結婚を望みました。
カール大帝はオファ王の提案に激怒し、マーシア国との交易と政治関係を断ち切ったと言われています。

カール大帝は、娘たちの結婚にはことごとく反対したことでも知られています。戦略的な理由で娘たちを結婚させたくなかったと推測されていますが、娘の嫁ぎ先が政治的なライバルになることを恐れたようです。
そのため娘たちは正式に結婚することはなく、宮廷の家臣や貴族と内縁関係になることが多かったようです。
でも、庶子の娘の場合はすぐに結婚させていました。


というわけで、カール大帝とオファ王の間に確執があったということに表向きはなっていますが、実際はそれほど険悪ではなかったようです。
カール大帝の外交官を務めていたサン・ワンドリーユ修道院の修道院長ジェルヴォルド(またはジロワルド)が介入して、友好関係は回復しました。


カール大帝


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余談*カールの戴冠

カール大帝は、800年12月25日にローマ教皇レオ3世の手によって「ローマ皇帝」として戴冠しました。

726年に東ローマ帝国のレオン3世が発布した聖像禁止令以来、東西教会の対立は深刻になっていました。

聖像禁止を進めた東方教会(やがてギリシア正教会へと進化)は、ランゴバルド王国を味方に引き入れ、聖像禁止に反対したローマ・カトリック教会に圧力を加えました。

ローマ・カトリック教会は、フランク王国・カロリング朝に保護を求め、ピピンの寄進(756年)によって関係を強化しました。
そしてでカール大帝を「ローマ皇帝」とすることで、東ローマ帝国と手を切ったのでした。

カールの戴冠


しかし、キリスト教会が勝手に決めた(?)イエスの生誕を祝う日に、カール大帝に戴冠するなんて、歴史的な陰謀事件ですね(苦笑)

ドイツでは、この出来事を神聖ローマ帝国の誕生として扱い、カール大帝は初代神聖ローマ皇帝と呼ばれるようになります。

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ウェセックス王エグバート

イングランドを統一したと言われているエグバートの父は、ケント王国の王エルムンドEalhmundでした。
その先祖を辿るとウェセックス王ににつながっていると言われていますが、どうも後世になって箔をつける為にこじつけられている感じです。

興味深いのは、780年ごろにマーシア王国のオファ王と、オファ王の娘婿にあたるウェセックス王国のベオルトリック王(在位:786年 - 802年)にケント王国は侵略されたらしく、まだ十代だったエグバートは追放されてフランク王国に亡命し、カール大帝の庇護を受けていました。


当時のフランク王国の宮廷は、オフファ王の敵対者の避難所として機能していたらしいです。

カール大帝とオファ王が仲違いしていた時期、というよりはむしろ・・・
ヨーロッパ一の力を持っていたフランク王国に匿われていたほうが安全だし、じゅうぶんな教育も武道も政治も学べる環境だったからではないかと思います。

オファ王もキリスト教会もそれを望んでいたんじゃないかな。
敵対国の若王を味方に引き入れることも出来るし、ゆるい人質という感じ。
1~3世紀のブリトン人は敵を皆殺しにしていたので、それと比べるとやはり「殺さずに生かす」理由があるはずです。

ウェセックス王国の王エグバート『ヴァイキング』より

上の写真は『ヴァイキング 〜海の覇者たち〜(2013年から2020年に放送されたカナダのテレビドラマ)で演じられたエグバート(演 - ライナス・ローチ)です。Netflixでも配信されているそうです。

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796年にオファ王が死去し、802年にウェセックスのベオルトリック王も死去したため、エグバートは呼び戻されウェセックスの王になりました。
エグバートの即位には、カール大帝の強力な支援と、おそらく教皇庁の支持もあったと思います。

エグバートがカール大帝のもとに亡命していたとき、もう一人、亡命していた若者がいました。
のちにケント王国の最後の王になったエドベルト3世・プレンです。

エドベルト3世もオファ王の追求から逃れてきていたそうで、オファ王が死去したため、エドベルト3世はケント王国に戻ることが出来ました。
当然エドベルト3世・プレンにも、カール大帝の息がかかっていたと考えるのが自然です。

カール大帝は、ノーサンブリア王国のアードウルフ王の即位も支援していたことがわかっています。

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マーシア王国は、オファ王亡きあと息子のエクフリスEcgfrith(日本語wikiではエグフリッド)が継承しましたが、数か月のうちにエクフリスは病死しました。
そのあと王位についたのは、遠縁のコエンウルフCenwulfでした。
オファ王は、息子エクフリスの統治を脅かす可能性がある者を粛清してしまったため、近親者が残っていませんでした。

カール大帝の顧問のアルクィンは、書簡に以下のように書いています。

かの高貴な若者が死去したのは、彼の罪によるものではなく、父親が流した血の復讐が息子に届いたのです。あの父親が、息子に間違いなく王国を継がせるためにどれほどの血を流したか、あなたもご存じでしょう。
このことは、王国を強くするというよりもむしろ崩壊させる行いでした。

新しいマーシアの王エンウルフ(在位 796–821年)は、798年にケント王国を侵略し、カール大帝が支援したエドベルト3世・プレンを拷問し(腕を切断)追放してしまいました。



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マーシア王国の衰退

マーシア王国の祖

コエンウルフ王は、マーシア王国のもうひとりのブレトワルダだったエゼルバルド王 (在位:716 - 757)の子孫と言われています。

オファ王もエゼルバルド王も、エオワ王(在位626年ごろ - 642年)の孫にあたります。
先祖を辿ると・・・長いので割愛・・・さらに遡るとアイセルIcil(460 年頃 – 535 年頃)という、ドイツのアングリア王国(現在のドイツ・シュレースヴィヒ ホルシュタイン州)の王が出てきます。

その父は、アングリアの伝説の王エオメル で (伝説が出て来ると眉唾ですが)、オーディンの子孫だそうです。

エオメルÉomer)は、J・R・R・トールキン中つ国を舞台とした小説、『指輪物語』に登場します。

アイセルはアングリアの最後の王で、 515 年頃にイングランドに移住し(侵略)、その年にマーシアの王になりました。


西暦500 年頃のアングル人(赤) とサクソン人(青)の移動図。


領主権でキリスト教会との対立

さて、コエンウルフ王はオファ王とは遠い親戚で、父親はカスバート・オブ・マーシアという名前でした。
マーシアの亜王国だったフウィッチェ家の血縁だったようです。

カール大帝の顧問アルクインは、コエンウルフ王を暴君とみなしていたようで、そのことから察せられるのはマーシアと、フランク(カロリング家)ならびにキリスト教会の間に不調和が生まれていたということ。


どうやらコエンウルフ王は、教会や修道院の管理について、キリスト教会に異議を唱えていたようです。
コエンウルフ王はカンタベリー大司教ウルフレッドと激しく対立していました。 教皇庁はカール大帝に「コエンウルフがまだ大司教と和解していない」と告げています。

コエンウルフ王はウルフレッド司教の権限を剥奪し、自分の娘のクウェンスリスウィンチカム大聖堂リカルバー大聖堂、およびサネット大聖堂の修道院長に任命しました。

リカルバー大聖堂については、偶然、下の記事で書いていました。


コエンウルフ王は821年に死去し、王の弟ケオルウルフ 1 世(在位821–823年)の即位によって、ウルフレッド司教はカンタベリー大主教に復活することが出来たそうです。

カンタベリー大聖堂


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マーシアは8世紀の大半にわたってアングロサクソン王国を支配し、796年に亡くなったオファは当時最も強力な王であった。
オファの死後まもなくマーシアの王位に就いたコエンウルフは、ケント王国、イースト・アングリア王国、エセックス王国でマーシアの影響力を維持することができ、オファズ・ダイク(イングランドとウェールズの国境に作られた堤防)を越えて現在のウェールズに頻繁に侵入していた。
しかし、821年のコエンウルフの死は、イングランドの政治地図全体が塗り替えられた時代の始まりとなった。

赤いラインがオファズ・ダイク(オファの堤防)
オファズ・ダイク


ウェセックス王国の隆興

ウェセックスのエグバート王の治世の初期については、ほとんど知られていません。

825年、エグバート王はエレンダンの戦い(Battle of Ellendun)で、マーシア王国のベオルンウルフ(Beornwulf、在位823年-825年)を破り、マーシアの覇権に終止符を打ちました。

エレンダンの戦いは、先にマーシアがウェセックスに進攻した戦争でしたが、マーシアは完敗してしまいました。
またエグバートの息子エゼルウルフは、マーシアの支配下にあったケント王国に進攻し、バルドレド(ボールドレッド)王を追放しました。

エゼルウルフは、アングロ・サクソン時代最大の王と称せられるアルフレッド大王の父。1番目の妃との間にアルフレッド大王は生まれた。
2番目の妃は西フランク王シャルル2世の娘ジュディス。

エレンダンの戦い


エグバートの勝利は、イングランド南東部の政治状況を恒久的に変えました。
それまでマーシア王の統治下にあったサセックス王国、ケント王国、エセックス王国はウェセックス王国に併合されました。

エグバートの権力は829年にピークに達し、ノーサンブリア王国も服従させ、一時的ではありましたが全イングランドを統一しました。

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