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フランク王国の衰退とカトリック教会

西暦800年12月25日、フランク王国の国王カール大帝は、第96代ローマ教皇レオ3世によって「ローマ帝国皇帝」を戴冠しました。
この戴冠は、西ローマ帝国の復活を象徴する出来事でした。

戴冠式の儀式は、カール大帝の権威と地位を象徴するものであり、ローマ教皇自らがカール大帝に帝冠を授けることにより、教会が世俗の権力者を公認するという重要な意味を持っていました。
カール大帝の戴冠は、教皇と皇帝の関係を示すものでした。

戴冠によりカール大帝は、政治的にはビザンツ王国(東ローマ帝国)の権威が及ばない独自の政治勢力となり、宗教的にはビザンツ皇帝から独立したローマ教会の保護者としての役割を担うことになりました。

「カールの戴冠」は中世ヨーロッパの政治と宗教の関係において、非常に重要な転換点となりました。

ラファエロによる「シャルルマーニュの戴冠式」1517年)


カール大帝が軍事力で王国を拡大するにつれてキリスト教も拡大し、10 世紀初めまでに、西ヨーロッパの大部分はキリスト教に改宗したと考えられています。



フランク王国の瓦解


カール大帝は、5回結婚し第二夫人も複数おり、生まれた子は(少なくとも?)約20人と言われています。

814年にカール大帝が死去すると、息子ルートヴィヒ1世が王位を継承しました。ルートヴィヒ1世は、最初の妻エルマンガルド・ド・ヘスバイエロベール家)との間に3人の息子と3人の娘をもうけましたが、818年にエルマンガルドが亡くなり、バイエルン公ユーディト・フォン・アルトドルフ(ヴェルフ家)と再婚し、娘と息子をひとりずつもうけました。

ここからが問題で、ルートヴィヒ1世は先の3人の息子に領地を分割相続させることに決めていましたが、ユーディトとの間にも男子(のちの西フランク王シャルル2世)が生まれたため、3人の兄たちの反乱を招くことになりました(829年〜833年)。

こうした混乱の中で、次男ピピン1世、父帝ルートヴィヒ1世が相次いで亡くなりました。
するとさらに相続争いは激しくなり、長兄ロタール1世に対して、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が連合して戦い、ついに843年に王国を3分割して相続することになりました(ヴェルダン条約)。


ヴェルダン条約によって、フランク王国は3つに分割されました。

長男のロタール1世は、皇帝の王冠と中部フランク王国の領土(黄色)を与えられ、 三男のルートヴィヒ2世は後にドイツ王国となる東フランク王国(水色)を領有しました。

シャルル2世は、後にフランス王国に発展する西フランク王国(グレー)を獲得しました。

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アキテーヌ公国の反乱

カール大帝のような強力なリーダーがいなくなったあと、分割されたフランク王国は中央集権が崩壊し、とくに西フランク王国で顕著に現れました。

西フランク王国内のアキテーヌ領は、ルートヴィヒ1世の次男で838年に亡くなったピピン1世の息子、ピピン2世アキテーヌの王位についていました。

アキテーヌ領

アキテーヌは、ローマ属州時代はガリア・アクィタニア( Gallia Aquitania)と呼ばれていました。アクィタニアの名は、現地の部族アクィタニ族に由来するそうです。
507年頃にフランク王国の領土になり、8世紀にルートヴィヒ1世によってアキテーヌ王国が創設され、その後、西フランク王家が相続していました。

ピピン1世の死後、アキテーヌの貴族たちはピピン2世を王に選出しました。彼の父ピピン1世は、832年にルートヴィヒ1世に反乱を起こした際にアキテーヌ王位を名目上奪われていました。
このため、ピピン2世とシャルル2世は、864年にピピン2世が幽閉されるまで長期間にわたり王位を巡って争いました。

844年、ピピン2世はヴァイキングを味方に引き入れようとし、逆に略奪のための偵察の機会を与えてしまい、のちにアキテーヌの首都であったボルドーをヴァイキングのヤール・オスカルに占領されてしまいます。
ボルドー包囲戦 (847年)
ピピン2世は臣下によって退位させられ、アキテーヌの貴族たちはシャルル2世を王として承認しました。

長きに渡って戦争状態におかれたアキテーヌは、東フランクのルートヴィヒ2世の息子ルートヴィヒ3世に占領されたこともありました。


876年の西フランク王国(オレンジ)
ベージュの部分は教皇領


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ブルゴーニュ公国

ブルゴーニュは、かつてのブルグンド王国で534年にフランク王国に併合され、フランク王国の一部として半自治的な存在を維持していたそうです。

843年のヴェルダン分割によってカロリング朝の中央集権主義が崩壊したため、880年にブルゴーニュ伯領はブルゴーニュ公国へと変わりました。
首都はディジョン

ブルゴーニュ公爵領以前の、ブルゴーニュ伯爵は898年~952年まではボゾン家(アルデンヌ伯家)、ヴェルジー家、956年からロベール家(カペー朝
)、1002年~1004年ブルゴーニュ=イヴレ家(アンスカリ家)に移り、1004年にフランス王国に統合されました。

フランス王国に統合される前のブルゴーニュ伯爵オット=ギヨーム(在位 982年 - 1026年)の息子ルノー1世は、ノルマンディー公リシャールの娘アデライード・ド・ノルマンディーと結婚し、孫でのちに第162代ローマ教皇カリストゥス2世(在位:1119年 - 1124年)となるギー・ド・ヴィエンヌ Guy de Vienne)が生まれました。

カリストゥス2世


また、オット=ギヨームの娘アニエスの最初の夫がアキテーヌ公ギョーム5世で、間に生まれた娘アグネスが神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世と結婚し、「カノッサの屈辱」でローマ教皇と対立したハインリヒ4世が生まれます。

そして、1122年ハインリヒ4世の息子ハインリヒ5世(在位 1098年 - 1125年)と、上述のローマ教皇カリストゥス2世が協議して、父の叙任権闘争に決着をつける(ヴォルムス協約)という興味深い流れになっていくのです。

この話はまたいつか。


そのほか、911年シャルル2世の時代にヴァイキングのノルマンディー公国が設立され、イングランドのプランタジネット家に繋がっていきます。

939年ルイ4世の時代にはブリトン人のブルターニュ公国が設立されました。

ブルターニュ公国


アキテーヌ(ボルドー)も、ブルゴーニュも、ブルターニュもワインの産地ですね。
ぶどう栽培は、ローマ人を介してイスラエルからガリアに伝わったそうです。イギリスにも伝わったけど、中世の小氷河期に全滅したと聞きました。


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カロリング朝の滅亡

東フランク王ルートヴィヒ2世が876年に死去し、三人の息子が東フランク王国を分割相続しました。

長男のバイエルン王カールマンは、第四代神聖ローマ皇帝ロドヴィコ2世から後継者に指名されていましたが、ロドヴィコ2世が死去した際、実際に第107代ローマ教皇ヨハネス8世に指名されて皇帝になったのは、叔父の西フランク王シャルル2世でした。

876年、シャルル2世は帝国の統一をもくろみ、次男のルートヴィヒ3世の領地に侵攻しましたが三兄弟の連合軍に敗れ、877年にシャルル2世は失意のうちに亡くなりました。
カールマンはイタリアを奪還しましたが、嫡子を得ないまま皇帝になることなく880年に死去しました。

ザクセンを受け継いでいたルートヴィヒ3世も、882年に嫡子無きまま死去し、三男のカール3世が遺領を継ぐことで東フランクを統一しました。

神聖ローマ皇帝カール3世

カール3世は、881年には第六代神聖ローマ皇帝として戴冠していました。

884年に、シャルル2世の孫カルロマン2世(ブルゴーニュとアキテーヌを相続していた)が狩猟中の事故が原因で死去したため、カール3世が西フランク王位を委ねられ、一時的に「フランク王国」を再統一しました。

しかし、887年、甥のアルヌルフ・フォン・ケルンテンがドイツを拠点に反乱を起こすに至ったモラヴィアのスヴァトプルクとの戦争や、ノルマン人の侵入へに対応できなかったことが貴族らの反乱を招き、カール3世は翌年廃位されてしまいました。

西暦 888 年のヨーロッパ。
アルヌルフの領土には「K. of Germany」と記されています。


アルヌルフは東フランクを支配し、西フランク王国にも介入し、庶子のツヴェンティボルドロタリンギア王国(ロレーヌ)を統治させました(在位:895年 - 900年)。

アルヌルフの三男ルートヴィヒ4世( ルイ王子)が東フランク王と、ツヴェンティボルド亡き後のロタリンギアを継承しましたが、僅か17歳で死去したため、東フランクのカロリング朝は断絶しました。

そのため王位は外甥(異母姉グリスムートとラーンガウ伯コンラートとの子)の、コンラディン家のフランケン大公コンラート1世が継承した。


シャルル2世が死去した翌年の888年2月、西フランク王位はパリ伯ウードロベール家)に移り、一時的にカロリング家の血統から外れました。

西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来きし、987年には、ロベール家のユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始されることになります。


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新しい封建社会へ

カール大帝の時代にはフランク王国の領土は広大だったので、複数の郡に分け、それぞれの郡にミッシ・ドミニキ(王の代理人)が派遣され、地方行政の査察・監督にあたっていました。

ミッシ・ドミニキは、地方の行政、司法、軍事行政など、各分野において伯(グラーフ)の活動を監察する任務を帯びて、中央から定期的に派遣されました。
伯らによる地方行政機構を補完し、国王大権による強大な権限を有していました。
具体的な任務には、地方行政の監督、官吏への不平の調査、ラント議会の開催、職権的証人訊問権を持つ巡察使裁判所の開設などが含まれていました。

ミッシ・ドミニキは定住ではなく、世襲でもなく、担当する管区内を年4回巡回しました。

8世紀頃からフランク王国では、伯に土地を与えてその土地を管理させる レーエン(ドイツ語Lehen)制度、つまり封建制(英語ではfiefdom)を取っていました。
国王は伯に土地を提供する代わりに忠誠と軍事的な奉仕を求め、伯はその土地を活用して得た収入の一部を国王に納めることで、国王の権威を認め、国家全体の秩序を維持していました。


この制度は、カール大帝時代には深刻な貴族の反乱がなかったことでうまく機能していました。

しかし、カール大帝の死後はレーエン制度は衰退してゆき、ミッシ・ドミニキの役割も変化してそれぞれの管区に定着し、地方的利害を担うようになっていきました。

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830年代からフランク帝国は、上述したように後継者を巡る内戦が始まり、アキテーヌ公国の反乱、ノルマンディー公国やブルゴーニュ公国の創設が相次いだことで、王権は弱体化しました。
加えてノルマン人、イスラーム教徒、マジャール人やアヴァール人などの侵入に苦しめられ、国力も低下しました。

逆に辺境防衛を担っていた貴族たちは、軍事力を高めるとともに影響力も強めていきました。
王も権力を保つために戦士貴族に頼らざるを得ませんでした。

東フランクでも、フランケンやバイエルン・ザクセンなどの大公・辺境貴族が台頭し、地域における主導権争いに勝利して国王に類比する権力を持つようになっていました。


そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになり、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していくことになります。


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「神の平和と休戦」運動

900年代後半も西フランクは不安定な状況が続いていました。
戦士貴族出身の新興領主たちは、領土を争って私闘(フェーデ)で土地を荒らし、罪のない人々を恐怖に陥れていました。

キリスト教会も偉大な後ろ盾であったカール大帝亡きあとは、不安定な状況でした。
教会は唯一の道徳的力であり、領主や騎士の暴力に対する唯一の歯止めにならなければならないのに、それをすることができませんでした。

当時、ほとんどの修道院が個人所有で、修道院長や役員の任命権(叙任権)をその一族や個人が持っていたので、自分の子や親戚を修道院長に任命したり、聖職売買などもあり世俗にまみれていました。

つまり、修道院は領主の土地や財産を保有していたため、領土紛争が発生すると、修道院の財産が攻撃の対象となりました。
新興領主は修道院の土地を奪い、その富を自身のものにしようとしたのです。

教会が所有しているものには、書物、芸術作品のほか、聖遺物などの宗教的な寄付なども含まれていたので、それを奪われないようにすることは重要でした。

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そういった中で「神の平和」運動が起こり、修道院を守るために重要な役割を果たしました。

神の平和運動(または神の休戦運動)は、10世紀から11世紀にかけてフランスで起きた宗教運動です。
この運動は、内戦やヴァイキングの侵攻によってフランク王国が分裂・無秩序化した結果、新興領主や城主層が台頭し、私闘(フェーデ)が相次いだことから始まりました。

具体的には、神の平和運動は989年にフランスのシャルー(アキテーヌ)で開催された会議で初めて宣言されました。
教会に強制的に侵入したり略奪したりすることを禁止し、農民の財産を奪うことを禁じ、農業資源、非武装の聖職者を保護することが目的でした。

1027年に南フランスのトゥールージュで「神の休戦」が宣言され、戦争のような活動の一時停止(具体的には、水曜の夕方から月曜の朝までというような)の形で、戦士貴族が暴力行為を行う曜日と時期を制限する運動も始まりました。

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庶民の多くは飢餓、暴力、社会秩序の崩壊に対する解決策として「神の平和」運動を支持したそうです。
神の平和運動は、新興貴族の行き過ぎを中和しようとする社会集団の努力の結果でした。

当時の教会は規則に従わない人々を罰する手段がなく、教会が持つ唯一の権力といえば、不従順な王を「破門」することだけでした。
破門はキリスト教会から正式に切り離されたことを意味し、従わない王は「反キリスト」とみなされました。

こうして教会は「神の平和と休戦」Peace and Truce of Godと呼ばれる史上初の大衆の平和運動を組織し、非暴力手段によって戦士貴族の暴走を抑制することが出来ました。

これは限定的な平和の制度でしたが、結果として騎士たちの地位を保証し、キリスト教的な戦士のアイデンティティを確立させ、十字軍の機運を高めることにもなりました。


ところで十字軍では、宗教指導者たちは教会や修道院の略奪を禁止していましたが、第4回十字軍(1202年 - 1204年)でコンスタンチノープルが陥落した際、大量の聖遺物の所蔵地として有名だったビザンツ帝国(東ローマ帝国)の教会を略奪し、多くの聖遺物を西ヨーロッパに持ち込みました。


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アキテーヌ公ギョーム5世の支持

アキテーヌ公国のギョーム5世(ポワトゥー家)は、アキテーヌの教会から始まった「神の平和」運動を支持していました。
ギョーム5世(在位 990年 - 1030年)は、激化する戦争の流れを食い止めようとしていたといわれています。

上述のブルゴーニュ伯爵オット=ギヨームの娘アニエスが結婚したのが、ギョーム5世です。

アキテーヌ公ギョーム5世


彼は歴史上はほとんど目立たない存在ですが、非常に教養があり、本の収集家でもあり、宮廷に詩人や学者を招いて文化的な活動を促進し、アキテーヌの宮廷を南フランスの学問の中心地に変えました。

一方で戦士貴族の資質はなかったそうで、数々の失政をおかしたとか。
しかし、彼は隣接する領主との平和的な共存を目指し戦争を避けたので、信頼に値する人格者と評されています。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世(オットー家)が嗣子を残さず崩御した際(1024年)に、ギョーム5世にイタリア王国の王位を受け継ぐようにロンバルディの貴族たちから求められましたが、すでにドイツ王を継承していた神聖ローマ皇帝コンラート2世(在位:1024年 - 1039年、ザーリア家)との政争を避けるために辞退したと言われています。

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三身分の概念

「神の平和と休戦」運動は、教会を中心にした新しい秩序の確立にもつながりました。
聖職者(オラトレス)、戦士貴族(ベラトレース)、労働者(ラブラトレース)の三つの身分が互いに協力し合うという概念が生まれたのです。


ところが「神聖ローマ皇帝」の立ち位置について問題が生じます。
神聖ローマ皇帝は、「戦う人」(ベラトレース)と「祈る人」(オラトレース)の境界線をまたぐ存在で、一般的な騎士や貴族とは立場が異なります。

この二重の役割は、時に矛盾しました。戦争を指導する一方で、キリスト教の理念に従って平和を求めることが求められました。
神聖ローマ皇帝は、神聖ローマ帝国の法的伝統や宗教的な権威を利用して、両方の役割を調和させようとしました。彼らは教会との協力を重視し、教皇との関係を維持しました。

ローマ教皇は神聖ローマ皇帝に戴冠を行う権限を持っていたので、教皇庁と皇帝の関係は複雑になり、両者は教会と世俗権力のバランスを取って、対立と協力の綱引きを行っていました。

皇帝=世俗の王、教皇=キリストの代理という構図ですよね。

そのパワーバランスが崩れたのが、ハインリヒ4世と第157代ローマ教皇グレゴリウス7世による叙任権闘争(または叙任権問題)です。

「カノッサの屈辱」は、神聖ローマ帝国において教会と皇帝の権限を巡る対立が発展した歴史的な出来事として後世に伝えられています。

叙任権の話は尽きません(苦笑)
じょじょに書いていきます。

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最後に(11世紀ミレニアム問題)

人々は西暦1000年が近づくにつれ、ミレニアムに対する不安を感じるようになりました。

終末論や黙示録に関連する予言的な期待が高まり、キリストの千年王国が近づいているので、サタンとの最終戦争で破滅的なことが起き、そのあとに「最後の審判」が行われるという考えをこの時代の人々は真剣に信じていました。
今だったら陰謀論と笑われてしまいますね。

「千年後、サタンは牢獄から解放され、地の四隅の国々、ゴグとマゴグに行って誘惑し、海の砂のように多くの国々を戦争のために集めるだろう」

教会は、千年王国に入るための条件として「悔い改め」を強調しました。
貴族たちは、自分の罪を清めるために修道院を多く作り、修道院には「死後の許し」を得るために民衆から多くの寄付が送られたそうです。
(十字軍の招集も「罪の赦し」から始まりましたよね)

特に誠実な修道院には多くの寄付が集まりました。
その代表的なものに、ブルゴーニュのクリュニー修道院があります。


クリュニー修道院は、910年にアキテーヌ公ギヨーム(ウィリアム)1世によって建てられました。

この修道院は他と違って教皇の管理下に置かれ、のちに「クリュニー改革」と呼ばれる修道院改革の大拠点となったのです。

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長くなりましたので、今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。

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