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歴史は勝者を正とする*アリウス派は悪?西ゴート王国VSメロヴィング朝

今年、私が一番ハマっているのが、平安時代をベースにした「光る君へ」というNHK大河ドラマです。
主人公は紫式部(ドラマ内では「まひろ」という名前)。
昔から平安時代は好きだったので、NHKはほとんど観ない私が数十年ぶりに毎週楽しみに視聴しています。

もちろんドラマなので「そういう脚本ありか?」と思う部分もあるんですが、それさえも面白い。
「光る君へ」では、藤原道長と紫式部が恋人同士だったという設定です。

史実では、紫式部は、道長の娘で一条天皇の中宮になった藤原彰子の女房(女官)のひとりでした。最近の研究では、道長の妾であった記述も発見されているそうです。↓

「光る君へ」では、日本史の中ではヒール役だった藤原道長を白塗りし、天皇を故意にサゲているという史実オタクから酷評も出るほど、藤原道長が魅力的に演出されています。

が、そもそも道長は悪いヤツだったのでしょうか?


はじめに*勝者に利する史実

私も「道長は腹黒」と教えられてきましたが、西欧の歴史を掘り返していると、歴史は常に勝者の記録だったのだとしみじみ思うのです。

これまでの日本史も藤原道長をサゲて、天皇をアゲる必要があったのではないでしょうか。

古い古い時代を調べるにあたって「史実」が非常に大切になってきますが、そもそも史実が創作や捏造された史料に基づいていたとしたら・・・

「史実」とは、「歴史上の事実」を意味している言葉です。
「史実」という表現は、「過去に実際に起こったとされる出来事・事実」を意味しています。
しかし、数百年以上前の遠い過去の時代に起こった出来事が客観的な事実であるかどうかを判断する方法には限界があるので、「史実」というのは「史料・歴史文書・定説と合意などから、歴史上の事実とされている事柄」を意味していることになります。

私がとてもガッカリしているのは、西欧の古い時代の記録が、歴史家(聖職者)が権力におもねるものであったことでした。

現在調べているフランク王国メロヴィング朝の初期は、トゥールのグレゴリウス(グレゴリー、538年頃- 594年)という司教の著書をもとにした史料が多いのですが、最近ではグレゴリーが創作した内容が多かったことがわかってきています。


トゥールのグレゴリーは、メロヴィング朝治下のアウストラシアのトゥール司教でした。
生まれたときの名前はゲオルギウス・フロレンティウス。
グレゴリーの近親者には著名な司教や聖人が多く、実際彼が生まれたころ、一族はトゥール、リヨンラングルの司教職を事実上独占していました。

グレゴリーは当時の4人のフランク王(クロタール1世の4人の息子シゲベルト1世、キルペリク1世、グントラム、キルデベルト2世)と個人的な関係を通じて、有力なフランク人のほとんどを個人的に知っていました。


グレゴリーは権力者におべっかを使ったつもりはなかったとしても、異教の王やアリウス派を乱暴者と表現し、対比としてクローヴィス1世が改宗したことで世の中が良くなったのだと描写したため、結果的にメロヴィング朝に利することになったでしょう。

それにしても創作が過ぎるのよ、グレゴリー。




クロティルダとニカイア派キリスト教

メロヴィング朝のクローヴィス1世の2番目の妻・クロティルダは、ニカイア派キリスト教徒だったと言われています。

まず私が疑問に思ったのは、アリウス派が優勢なゲルマン民族の中で、なぜクロティルダはニカイア派だったのかな?ということでした。

オレンジ=アリウス派(西ローマ)、青=ニカイア派(東ローマ)


クロティルダは、東ローマ帝国で暮らしていたか、ニカイア派と接触があったと考えられますよね。

クローヴィス1世とクロティルダが結婚したのは、493 年頃とされていますが、私は500年以降だと思います。(後述)
クロティルダの勧めで改宗したとクローヴィス1世の洗礼は496年と言われていますが、おそらく507年前後です。


クローヴィスとクロティルダ


クロティルダの父親は、ブルグント王国のキルペリク2世と言われています。

ブルグント王国は、デンマークのボーンホルム島Bornholm(「ブルグント族の島」の意味)からやってきて、ライン川の東に居住していたブルグント人によって建国されました。
詳しくは別記事にて。



トゥールのグレゴリーによれば、キルペリク2世(486年没)は兄弟のグンドバトGondebaud( 516年年没)に殺害され、妻のカレテーヌも溺死させられたとなっているのですが、これはグレゴリーの創作だったそうです。

確かにキルペリク2世が殺害されたのは事実としてあるそうですが、カレテーヌは殺されておらず、彼女はグンドバトと再婚し506年まで生きていたことが墓碑からわかっています。
彼女は、大天使聖ミカエルを讃えてリヨンに建てたサン・ミッシェル・デネ教会(宗教戦争で教会は破壊された)に埋葬されました。

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グレゴリーはなぜカレテーヌの処刑を創作したのか?

私が思うには、キルペリク2世が殺害された頃、ブルグント王国は507年までフランクと対立していた西ゴート族と親しくしていました。
のちにグンドバトはフランクと同盟を結びますが、カトリックに改宗はせずアリウス派のままでした。(最終的にブルグント王国はフランク王国に併合されました)
そのため、グンドバトを貶めたのでしょう。


ブルグント王国と西ローマ帝国

グンドバトの母は、西ローマ帝国のゲルマン人の将軍リキメル(472年没)の妹でした。
またリキメルの母は、西ゴート王ワリアの娘だったそうです。

リキメル将軍は、456年にアウィトゥス帝を廃位して軍務長官の地位に就き、死去する472年までに4人の皇帝を傀儡として擁立しました。
そのうち3人の皇帝を廃位・殺害して国政を壟断し、彼の死の4年後に西ローマ帝国は滅亡しました。

グンドバトはリキメルの後継者として、西ローマ帝国ラヴェンナの宮廷で教育を受けました。

リキメルが権力を振るうもとで、ガリア軍区司令官として働いたグンドバトは、リキメルの死後パトリキ(貴族)の称号とマギステル・ミリトゥム(軍務長官)の役職を引き継ぎました。

ジュネーブのブール・ド・フール広場にあるグンドバドの像


しかし、473年12月に東ローマ皇帝レオ1世(在位457年 - 474年)が軍務長官に任命したユリウス・ネポスが、グンドバトが皇帝に即位させたグリケリウス(在位 473-474)を廃位させ、西ローマ皇帝として即位しました。

同じ頃に父のゴンディオクが死去(473年死去)したこともあり、失脚したグンドバトはブルゴーニュに戻りました。

ブルグント王国は大叔父キルペリク1世(480年頃死去)が王位を継承していましたが、嗣子がなかったこともあり、グンドバトほか兄弟のゴドマール、キルペリク2世、ゴデギゼルが共同統治することになりました。

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485年頃に、ゴドマールとキルペリク2世はグンドバトを廃位させ、彼の領土と財産を奪うことにしました。
この戦争でゴドマールは戦死し、上述したようにキルペリク2世は処刑されました。

クロティルダと姉妹のクロマは、もうひとりの叔父ゴデギゼルに引き取られました。

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ゴデギゼルの妻テウデリンダについての出自や幼少期の記録はなく、ニカイア派キリスト教徒で、特にテーベ軍団の戦士殉教者を敬っていたと記されています。

テウデリンダは、ジュネーブとその周辺にこれらの聖人を称えた教会をいくつか建てました。

スイスのゾロトゥルン市の聖ウルス大聖堂(中世)


ゴデギゼルはアリウス派のままだったので、クロティルダがニカイア派に改宗したのはテウデリンダの影響だったのでしょう。

西ゴート王国VSメロヴィング朝

492年から508年にかけて、フランク王国とアラリック2世率いる西ゴート王国の戦争が起きました。

ことの起こりは486年に、クローヴィス1世がソワソン王国に侵攻したことです。ソワソンの戦い

ソワソン王国は、西ローマ帝国の軍人だったアエギディウスが、461年に西ローマ帝国から独立して建てた国でした。
アエギディウスは465年に突然死去し、子のシアグリウスが継承していました。

ソワソン王国(461年ー486年)


フランク族とソワソン王国は、当初良好な関係でしたが、クローヴィス1世の父キルデリク 1世が476年から481年の間にイタリア領主オドアケル(東ローマ側)と連携するようになったため、シアグリウスは西ゴート族の王エウリック(在位466年 - 484年)を頼るようになっていました。

シアグリウスがオドアケルを嫌悪していたかはわかりません。
西ローマ帝国の残存国家だったソワソン王国は、東ローマ帝国側としては征服したい存在だったでしょう。

***

エウリック王はローマ帝国の支配からの独立を宣言した最初の西ゴート王でした。

475年、彼は西ローマ皇帝ユリウス・ネポスに、ガリアのプロヴァンス地方の返還と引き換えに、フォエデラティの地位ではなく完全な独立を認めるよう強制した。
ヒスパニアのローマ市民はエウリックに忠誠を誓い、彼を王として認めた。

481年にキルデリク 1世が亡くなりクローヴィス1世が即位し、エウリック王も484年に亡くなりアラリック2世が即位し、次世代の王たちは激しく対立するようになっていたのです。

アラリック2世の想像上の肖像(1856年)


クローヴィス1世に攻め込まれたソワソンのシアグリウスは、西ゴート王国に逃げ込み、アラリック2世に庇護されました。

トゥールのグレゴリーによれば、クローヴィス1世に脅されたアラリック2世は交換条件にシアグリウスを引き渡し、シアグリウスはクローヴィス1世によって処刑されたと言われています。
(ただ、これも現在では否定されているようです)
シアグリウス家は757年まで存続したことがわかっています。


クローヴィスによるブルグント侵攻

ソワソンの戦い(486年)の結果、フランクの領土はほぼ二倍になり、西ゴート族の領域に隣接する事になりました。
すると次にクローヴィス1世が狙うのは、当然西ゴート王国です。


*****

490年、アラリック2世はイタリア征服において、東ゴート王国のテオドリック大王(526年没)を支援しました。
このテオドリック大王のイタリア征服は、東ローマ皇帝ゼノンの依頼によるものでしたが、テオドリック大王はイタリア領主オドアケルの捕虜になってしまい、テオドリックを救出するためにアラリック2世は軍隊を派遣しました。

オドアケルといえば、476年に最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス(12歳)を廃位したことで知られています。(後述)
その功績で皇帝ゼノンから報奨としてパトリキの地位とイタリア本土を統治する法的権限を与えられていましたが、488年頃から皇帝とオドアケルは不仲になり、ゼノンはテオドリックにオドアケルを攻撃するように依頼したと言われています。

オドアケルの王国の版図


結局、493年2月にテオドリックはオドアケルに勝利し、イタリアを共同統治する条約が調印されました。
しかしテオドリックは3月に条約を祝う宴会を催し、その宴会でオドアケルを刺殺し、イタリアの支配者になりました。

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500年(~10年間)、フランク王国がブルグント王国を攻撃したときには、アラリック2世はブルグントのグンドバトを支援しました。

このときの戦争では、クローヴィス1世がグンドバトの弟のゴデギセルを仲間に引き入れ、弟の軍隊が敵方に戦闘員になっていることを知らなかったグンドバトが負けて追放されました。

王位を奪われたグンドバトはアラリック2世の支援を受け、ゴデギセルのいるヴィエンヌを陥落し、ゴデギセルと彼を支持するブルグント人たちを処刑しました。

ヴィエンヌ


このときにゴデギセルと妻のテウデリンダ、ならびに彼らの子どもたちは処刑されたそうですが、ゴデギセルが庇護していたキルペリク2世の忘れ形見クロティルダと姉妹のクロマはグンドバトに引き取られました。


ゴデギゼルの紋章

この時代のゲルマン人が紋章を持っているのは珍しいです。
いったいゴデギゼルは何者?

クローヴィス1世がグンドバトを攻撃した理由について、妻クロティルダの父が殺された報復だったと言われていますが、この時点ではまだ結婚していないので、これもまた後世の創作と思われます。

クローヴィス1世の目的は、西ゴート王国の征服のためにブルグンド王国を支配下におくことだったでしょう。

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アラリック2世の戦死

502年にクローヴイス1世とアラリック2世は和平条約を結び、メロヴィング朝と西ゴート王国の争いは終わったかに見えましたが、507年に第二次フランク・西ゴート戦争が起きました。

東ゴート王テオドリック大王は、クローヴィス1世の妹アウドフレダと493年頃に結婚しており、フランクと親戚関係でした。
またテオドリック大王の娘デオデゴタは、アラリック2世と結婚していました。

両方の親族という立場でテオドリックは和平を仲介しようとしましたが、クローヴィス1世はアラリック2世の本拠地トゥールーズに侵攻を開始しました。

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507年夏の「ヴイエの戦い」は、フランク軍の大勝利でした。
規模と装備ではフランク軍に勝っていた西ゴート軍でしたが、戦闘の最中にアラリック2世が戦死したため敗北しました。

アラリック2世統治下の西ゴート王国


この戦いでは、クローヴィス1世は息子のテウデリク1世(最初の妻との子ども)に別動隊を与え、独自行動をとらせていました。
グンドバトはフランク王国と和解して手を組み、テウデリク軍に加わっていましたが、テオドリック大王軍の横やりをうけて撤退しています。

翌年、クローヴィス1世は西ゴート王国の首都トゥールーズを占領。
カルカソンヌも包囲しましたが、東ゴート軍が現れてフランク軍を追い払いました。

トゥールーズは7世紀にアキテーヌ公国の首都になります。

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その後の西ゴート王国は、アラリック2世の庶子ゲサリックが成人していたので王位を継ぎましたが、テオドリック大王によって511年頃に廃位させられました。

テオドリック大王の血を引くアマラリックはまだ幼かったため(当時6歳ぐらい)、テオドリック大王が摂政となり、522年頃にアマラリックは親政を始めました。

アマラリックの想像上の肖像画


テオドリック大王が死去した526年に、アマラリックはフランクとの和平のためにクローヴィス1世の長女クロティルドと結婚しましたが、531年にクローヴィス1世の息子のひとり、パリ王の兄キルデベルト1世がアマラマリックの本拠地ナルボンヌを陥落させ、アマラリックは逃亡先のスペインバルセロナで暗殺されました。


このときのフランク軍の侵攻理由は、アリウス派のアマラリックがカトリックのクロティルドを虐待して、アリウス派に改宗させようとしていた
(クロティルドから兄キルデベルト1世に、虐待の証拠として血の付いたハンカチが送られてきた)ということでした。

クロティルダは兄に助け出されたが、フランク王国に帰る途中で亡くなったそうです。

なんて気の毒なんだと思っていましたが、この虐待の話もトゥールのグレゴリーの記録によるものなので、創作だった可能性があります。
現在では、フランク王国はスペインを攻撃する理由が欲しかったのだろうと言われています。

アマラリックの死により、約135年にわたり西ゴート族の王であり続けたバルト家の王朝は(少なくとも男系としては)断絶しました。


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長くなりましたので、ブルグント王国のグンドバトの先祖と子孫については、次の記事に譲ります。


最後に余談~オドアケルと西ローマ皇帝の退位

オドアケルといえば、475年に西ローマ皇帝ユリウス・ネポス(上述のグンドバトの失脚の原因となった)を倒した西ローマ帝国の将軍オレステスを処刑し、476年にオレステスの子で最後の西ローマ皇帝に即位したロムルス・アウグストゥルスを廃位したことで知られています。

ちょっとややこしいですが、ユリウス・ネポスは東ローマ皇帝レオ1世の傀儡でした。
レオ1世が死去したので、オレステスは反乱を起こしてユリウス・ネポスを追い出し、自分の息子ロムルス・アウグストゥルス(12歳)を西ローマ皇帝にしたのです。
新しい東ローマ皇帝ゼノンは、ロムルス・アウグストゥルスを容認しませんでした。

オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス


オドアケルは西ローマ帝国の軍人でアリウス派でしたが、兄は東ローマの軍務長官オノウルフスでした。
オドアケルは、自分が西ローマ皇帝に収まることはせず、リキメルらのように傀儡皇帝を立てることもせず、「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする勅書を、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣とともに東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送ったそうです。

「歴史学者のステファン・クラウトシック(Stephan Krautschick)は、この時期にオドアケルの兄弟オノウルフスが東ローマ帝国の有力者だったことを挙げ、ローマ帝国の東西で権力を握ることに成功したオドアケル一族が東ローマ皇帝の名でローマ帝国の東西を一元的に統治する構想を持っていたのではないかとしている。

皇帝ゼノンは、オドアケルに報奨としてパトリキの地位とイタリア本土を統治する法的権限を与えました。

ゼノンとオドアケルは、西ローマ皇帝の廃止後も元老院など西ローマ帝国の政府機構はそのまま残し、古代ローマ式の統治方法を継続したそうです。
この元老院がラテン教会(ローマ・カトリック)の組織となり、カロリング朝に影響を与えていくのです。

オドアケルの王国の版図


またもや長くなってしまいました(汗)
次回の記事は、東ローマ帝国とフランク王国を関わりを、ブルグント王国の興亡を通して綴っていきたいと思います。

最後までお読みくださりありがとうございました。

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