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ゲルマン人移動&ゴート族&キリスト教アリウス派

4世紀、5世紀をメインに起きたゲルマン人大移動と、西洋占星術の区分である「風の時代」はリンクしています。


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ゲルマン人大移動

2世紀から6世紀にかけてゲルマン人の移住経路


ゲルマン人は、紀元前2世紀頃にユトランド半島、スカンジナビア半島にいた民族が、中世初期にかけて北西ヨーロッパ、中央ヨーロッパに移住してきたゲルマン語を話す部族集団でした。


西はオランダからライン川下流域、東はポーランド最長の川であるヴィスワ川流域、ドナウ川北岸、ウクライナの中央を流れるドニエプル川下流域まで広がり、北ゲルマン、西ゲルマン、東ゲルマンの3つのグループを形成していました。

ゲルマン人大移動の主役となったゴート族は東ゲルマンのグループです。

375年、フン族に押されてゲルマン人の一派であるゴート族が南下し、ローマ帝国領を脅かしたことが大移動の始まりとされる。
その後、多数のゲルマン民族が南下をくり返しローマ帝国領に侵入した。
移動は侵略的であったり平和的に行われたりしたが、原因として他民族の圧迫や気候変動、それらに伴う経済構造の変化があげられている。


フン族に押された」から察すれば、フン族もまた「何か」に押されていたのかもしれません。

ヨーロッパの伝承によれば、フン族は現在のロシア西部を流れるヴォルガ川の東に住んでおり、当時スキタイの一部だったと言われています。


ある歴史家は、フン族が西へ移動した理由として内モンゴル全域をカバーする領土を持っていたロウラン・カガン国(ジュジャン族)の存在を指摘しています。

4世紀のアジアは、モンゴル高原を中心として活動していた「匈奴」と呼ばれる遊牧騎馬民族が中国北部にまで勢力を拡大している時でした。
匈奴は中華的な呼び名で、実体はスキタイ人やサルマタイ人のグループだったんじゃないかと思います。


歴史上はフン族になっているがフン族とは限らない、ということもありえる気もします。
似たような遊牧騎馬民族も多かった時代、アッティラ王(在位 434年 - 453年)がリーダーになる前のフン族はその他大勢の部族のひとつだったんじゃないかと思います。

私がアヤシイと思っているのは・・・Bastarnae(バスタルナエ)という部族です。彼らはマケドニア王フィリッポス5世との同盟で名が知られたのですが、紀元前8世紀にスカンジナビアから移住した最初の東ゲルマン部族であると見られています。


バスタルナエは紀元前200年頃にドナウ川に到着し、現在の ウクライナとモルダビア(モルドバ)に定住していた野蛮な民族だったようです。
バスタルナエは大規模民族だったのですが、ゴート族と同化して5世紀半ば以降は名前が消えました。

しかし、ブルゴーニュ人やフランク人に呼び名が変わっただけという説も。



ゴート族のふるさとはポーランド?

ゲルマン民族の大移動の推移
赤:移動前 紀元前750年 /橙:紀元前500年/ 黄:紀元前250年 /緑:紀元1年


スウェーデン発祥?

ゴート族は、スウェーデン南部イェータランド(「イェアト人の土地」)に住んでいた北ゲルマン民族のゲートGeat族(「種を注ぐ者」の意味)やゴットランド島グーテス族から派生したという説があります。


イェータランドの歴史的な紋章


ゴットランドとは「ゴート族の地」の意
ゴットランド島は中世においてはヴァイキングが支配し、通商・貿易の拠点として栄えた。
近年、700年頃のゴットランド貴族の墓の発掘調査でDNA分析が行われた結果は、ヴァイキングが通商を通じて、異民族・異人種と盛んに交流を行い、ゴットランドがその拠点であったことを裏付けている。
実際、ヴァイキングは西はグリーンランド及び北米、東は中央アジアからシベリアに至るまで交易を広げていた。


しかし、有力な説なのにゴート族の発祥地がスウェーデンと断定することはできないとも言われています。

察するに「ノルマン主義」「反ノルマン主義」の影響があるのかな?

9世紀に現在のウクライナやベラルーシあたりにあったルーシー・カガン国はヴァイキングが建国したというのを、反ノルマン主義者は大否定しているようですし、「反ユダヤ主義」も合わせて西欧人はなかなか難しい(苦笑)


ポメラニア(ポーランド)との関係

ポーランドのグダニスク湾に面するグディニャは、オクシヴィエ文化の中心だった東ポメラニア地方に属しています。
このオクシヴィエ文化は、ゴート人が起源と考えられています。

オクシヴィエ文化(ポーランド北部の2カ所の茶色)

ポメラニア地方における考古学調査により、オクシヴィエ文化は、ポーランドに広がっていたポメラニア文化のうちのこのポメラニア地方一帯の部分が紀元前2世紀にポメラニア文化から分離していったものと考えられている。

ポメラニア文化は、紀元前650年ごろにルサチア文化から発展した。

上の地図を見ると、オクシヴィエ文化は海に面している土地(港町)にしか広がっていないことがわかりますね。
ポメラニア地方は、土地が痩せていて農業に適さず、古くから海岸より奥は人がほとんど住んでいなかったそうです。

ポメラニア文化に特徴的な、人の顔のついた骨壺。
ポメラニア地方


しかし、ポメラニア地方は中世には貴族諸侯の取り合いになるんです。
ドイツ騎士団が都市を作ったり、プロイセン王国に併合されたり。
港を押さえるのは政治的に重要ですものね。

犬種のポメラニアンは、この地の名に因んでいるそうです。

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その後、人口が増えたゴート族は農業に適さないポメラニアを捨てて、東はポーランド最長の川であるヴィスワ川に沿って南下し、ウクライナに至りました。

1世紀初頭から3世紀にわたってポーランド、ウクライナに興ったヴィールバーク文化は、黒海北部においてサルマタイ人スラヴ人の文化であるチェルニャホフ文化の一部と混交し、キエフ文化を形成したと考えられています。

今のウクライナは政治的な印象が悪いですが、地理的には古代から肥沃な土地で、水源にも恵まれて農業には最適ですね。

ヴィールバーク文化、ゴート族の移住(オレンジ矢印)、2-3世紀、
チェルニャホフ文化(オレンジ線)、3世紀と(赤線)、4世紀、
キエフ文化(黄色線)、3-4世紀


ローマ帝国との対立

「ゲルマン人大移動」以前から、ゲルマン部族はローマ帝国領の国境を侵犯し、争いが起きていました。
その中でも、ローマ国境を越えてバルカン半島を荒廃させた最大の集団はゴート族だったと言われています。

皇帝デキウス(249年 - 251年)の治世では、ゴート族が中心になったゲルマン部族がドナウ川流域のローマ属州ダキアモエシアへの侵攻を繰り返していました。
彼らの目的は、侵攻した地域から「保証金」を得る為でした。(金くれたら帰ってやるよ、という意味なので退去料です)

251年の7月ころに起こったアブリットゥスの戦いで、ローマ軍はゴート族の罠にはまり、デキウス帝は戦死しました。
その場所は多くのローマ兵が足を取られた湿地帯で、デキウス帝の死体も見つからなかったそうです。

250年から251年のドナウ川流域のローマ帝国属州


デキウス帝の後継となった皇帝ガッルスは、「アブリットゥスの戦いでゴート族が得た莫大な戦利品や優秀な技術者も含むローマ人の捕虜をそのまま保有することを認め、ローマ領内を侵犯しないという条件付ながら多額の金品を払う旨」の内容で和睦を締結したそうです。

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271年の皇帝アウレリアヌスはゴート族を撃破して、テルヴィング族(西ゴート人)の指導者カンナバウデスを殺害しました。

アウレリアヌス帝は、疫病で亡くなった先帝クラウディウス・ゴティクスの弟とローマの王位をめぐって戦い、その後はイタリアでヴァンダル族や現在のドイツ・バイエルン州に居住していたユトゥンギ族と戦うことに専念していました。
カンナバウデス率いるテルヴィング族はこの状況を利用し、ドナウ川下流の諸州を荒廃させいくつかの都市を略奪しました。

アウレリアヌス帝は、テルヴィング族をローマ帝国から追い出しただけでなく、ドナウ川を越えて彼らを追い、カンナバウデスは部下5,000人とともに戦死したと言われています。

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ほかにもゴート族による国境侵犯はありますが、トイトブルク森の戦い(紀元9年)、マルコマンニ戦争ハドリアノポリスの戦いと共にアブリットゥスの戦いもローマ帝国がゲルマン民族から受けた打撃の一つとして記録されています。



ローマ領への定住化

皇帝プロブス(在位276年 - 282年)もまた、治世の大半をライン川・ドナウ川でのゲルマン民族との戦争に費やしました。
277年にドナウ川下流でゴート族を破り、彼らを従わせています。

プロブスは征服した部族から人的資源の貢ぎ物を強制し、帝国内に蛮族を大規模な補助者として定住させる前例を確立しました。

3世紀の危機の間、地方は戦争、病気、混沌とした行政、重税、大規模な軍隊の徴兵によって過疎化しており、蛮族の植民地は辺境防衛と農業の実践を回復させるのに役立ちました。


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東ゴート族、西ゴート族という便宜上の区別は、いつから始まったのかわからないですが、北からやってきたゴート族とウクライナの土着の人々が融合して、おおまかに二つの力が強い部族に分かれました。

ドニエストル川とロシアのドン川の間のポントス草原に住んでいたグリュトゥンギ族歴史上の東ゴート族と呼ばれ、
ドナウ川下流域の北、ドニエストル川の西の平原(モルドバ付近)に住んでいたテルヴィンギ族が西ゴート族と呼ばれています。

東ゴート族は、フン族やほかの騎馬民族に狙われやすい居住地ですね。


西ゴート人の野望

ゲルマン人大移動は、フン族によって東ゴート人が虐殺、全滅させられたのを知った西ゴート人が、10万人規模でローマ帝国国境線まで逃げてきたのがきっかけと教科書等では言われていますが・・・私は最初から移住(乗っ取り)が目的じゃないのか?って思っています(汗)

ローマ帝国の時代を通じて移民は一般的だったそうですが、 100年間で移住者の総数は75万人以下だったそうです。

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350年以降にフン族はロシアの西を流れているヴォルガ川を越えて、まずアラン族の土地に侵入しました。
アラン族はカスピ海のほぼ全域を支配していた遊牧民族で、中国にも阿蘭国として名が響いていました。

現代の歴史家は、アラン人を中央アジアの ヤンカイ族、ローマの文献に出て来るアオルシ族と結び付けている。
アルオシ族は20万人の騎兵を召集出来た。

歴史上は、フン族がアラン族を取り込んで(アラン族は絶滅させられませんでした)、その次に375年に黒海北岸に居住していた東ゴート人の土地を襲い、財産を略奪し、皆殺しにしたというのが定説です。

しかし、アラン族が東ゴート人を攻撃し、逆にゴート人はフン族に助けを求めたが、戦いのリーダーだったヴィティミリスが戦死してしまったため、統治者を失った東ゴート人はフン族に服従したという説もあります。

「真実は霧の中」ですね。

ヴォルガ川


そうこうして定住していた土地を追われた東ゴート人(グリュトゥンギ族)が、西ゴート人(テルヴィンギ族)が定住していた土地に移住してきたため、今度は西ゴート人が押し出されたわけです。


西ゴート人は、皇帝ウァレンス(在位364年 - 378年)にドナウ川南岸の帝国領内への移住の許しを求めました。

367~369年のゴート戦争で、ウァレンス帝は西ゴート王アタナリックと戦い、勝利しました。
その際に「ドナウ川を越えないこと」を、ウァレンスとゴート族は締結していたのです。

西ゴート族


今回の西ゴート人のリーダーは、テルヴィンギ族のフリティガーン(370年代)という人物でした。
フリティガーンは、武装解除した上で、ドナウ川南岸へ移住する代わりに軍務に適した男を補助兵としてローマ帝国へ差し出すとともに、帝国内で農耕することを提案しました。

これに対してウァレンス帝は、ドナウ川南岸のトラキア(現在のブルガリア北東部)への移住を認めただけでなく渡河の支援まで行ったそうです。

ゴート族からローマ軍団への戦士の供給する代わりに、ローマ帝国はゴート族の保護を約束するフォエデラティ(同盟条約)を結びました。
条約では帝国領内へは武器の持ち込みは認められないとされたが、国境警備兵はゴート族が武器を帯同することを黙認しました。


西ゴート人が移住したシリストラ(ブルガリア)

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ゴート戦争

しかし他の部族も便乗してきたため、当初帝国側に伝えられていた規模(約10万人)を大きく上回る30万人が移住してきたと言われています。

移住した季節が収穫期にあたる秋であったため、トラキア地方の行政官は翌年の収穫時までの1年間の食や生活必需品を移住してきた部族に支給しなくてはならなかった。
しかし、行政官は生活面の補償をせず、また補償されても量も少なく低品質であったため、西ゴート族は武装解除せずに略奪を始めた。


377年冬になると、ローマ帝国とゴート族の間での戦いが始まりました。

ハドリアノポリスの戦い

ハドリアノポリス(現:エディルネ)の戦いでは、ローマ軍は全軍の3分の2を失う惨敗を喫し、また皇帝ウァレンスも負傷して逃げ込んだ小屋に火をつけられ焼死しました。


赤:西ゴート族・東ゴート族連合軍
青:ローマ帝国軍

ローマ軍は右翼・中央・左翼に騎兵団を展開する典型的なローマ軍の布陣、つまり会戦方式の陣形をとったが、複数の部族の集合体であった西ゴート族側は各部族が独立して攻めてくる陣形で攻撃したため、ローマ軍は意図する包囲戦の形へ持ち込めず、各軍がばらばらに攻防を展開することになった。

これにより、西ゴート族は武力を保持したままでローマ帝国内に居座ることになり、帝国中央部に侵入を許したため東西ローマの分裂も決定的になりました。

戦いに勝利したゴート族は、トラキア地方一帯を略奪し、翌379年にはダキア(ルーマニア周辺)でも略奪を行いました。
ウァレンスの後を継いだ皇帝テオドシウス1世(在位 379年 - 395年)は、ゴート族をトラキア地方まで押し戻し、382年に和平条約を結びゴート族を同盟者として帝国内に定住することを認めました。


しかし、西ゴート族の不満は解消されたわけではなく、410年にアラリック1世率いる軍勢がローマを侵攻・陥落する大事件が起きることになります。

395年にテオドシウス1世が没し、帝国が2分され東ローマ帝国初代皇帝となったアルカディウス(在位 395年 - 408年)は、先帝が結んだ西ゴート族への給付金の約束を違えた。これに対して、西ゴート族は新たに王となったアラリック1世(在位 395年 - 410年)のもと反乱を起こした。

有名な「ローマ掠奪」ですが、なぜアラリック1世が反乱を起こしたのかの表に出てこない人間模様が興味深かったので、またいつか書かせていただきたいです。


アリウス派への改宗


キリスト教アリウス派はニケーア宗教会議(325年)で異端とされ、ローマ領内での布教が出来なくなっていましたが、コンスタンティヌス1世(アタナシウス派)の息子コンスタンティウス2世(在位 337年 - 361年)はアリウス派でした。

ハドリアノポリスの戦いで焼き殺された皇帝ウァレンスも、アリウス派でした。ウァレンスの不名誉な死を聞き、対立していたアタナシウス派(三位一体派)は歓喜したとも言われています。


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4世紀の中ごろ、西ゴート人のウルフィラという人がコンスタンティノープルでアリウス派に改宗し、聖書のゴート語訳をつくってゴート人に布教したことから西ゴート人にアリウス派が広がったそうです。

アリウス派の信仰はゲルマン人の土俗的信仰と結びついて、特にゴート人に近い東ゲルマン系の間に広がったが、西ゲルマン系のフランク人とアングロ=サクソン人はその影響を受けなかった。

ゴート人に福音を説くウルフィラ


私がちょっと不思議に思うのは、人は簡単に信仰を替えられるものだろうか?ということです。
アリウス派からアタナシウス派へ、またはその逆は割とあると思いますが。

別の解説では、「西ゴート人に最初にローマ帝国領に住む許可を与えた皇帝ウァレンスがアリウス派だったから」というのがあり、そういう現実的な話のほうがあり得ると思いました。
宗教の統一は、政治的に重要ですものね。


西ゴート王国の成立

410年のアラリック1世による反乱は、西ゴート王国の成立に繋がりました。

415年に西ゴート族のワリア王は西ローマ帝国と手を結び、イベリア半島を征服していたヴァンダル族、スエビ族らを討ち、418年に西ローマ皇帝ホノリウス帝から正式に属州アクイタニア(アキテーヌ)の一部を与えられました。

ワリアは南ガリアで勢力を拡張し、トロサ(トゥールーズ)を首都と定め西ゴート王国を建国しました。
ワリアの息子(庶子)テオドリック1世は、フン族の王アッテイラを倒したことで知られています。

ワリア王


しかし、まもなく西ゴート族はフランク王国のクローヴィス1世と衝突するようになります。
507年、フランク族はブルグント族と同盟を組んで西ゴート国を攻撃し(ヴイエの戦い)、トゥールーズを略奪しました。
508年までに西ゴート国は、ガリアの領土のほとんどを失いました。

西ゴート王国の領域、約 500 年 (全領域はオレンジ色で表示、
ヴイエの戦い後に失われた領土は薄いオレンジ色で表示
スエビ王国は585 年に併合された)。


西ゴート王国はイベリア半島だけの領土となったため、首都をイベリア半島内陸のトレドに移しました。


西ゴート族とその初期の王たちはアリウス派で、ローマ教会と物理的な距離もあったせいか対立しがちでした。その原因はカトリック聖職者の側にあったとされています。

私も大いにそう思います。
アリウス派で居続けることは寿命を縮めるようなもの。

フランク王国があれほど巨大になったのは、クローヴィス1世がカトリックに改宗したからです。
(カトリックもいろいろで、フランク王国でも暗殺が続きましたが)


レカレド1世の改宗


レカレド1世(在位586年 - 601年)の時代になって、やっとローマ・カトリックに改宗して大転換をはかり、それ以降、西ゴート王国の都トレドはイベリア半島のキリスト教文化の中心地として栄えました。

711年、イスラーム勢力の侵攻によって滅ぼされました。西ゴート族の貴族たちは処刑され、既存の権力構造の多くが破壊されました。


東ゴート王国

フン族に従属していた東ゴート人は、フン族の衰退に乗じて自立し、457年頃パンノニア(現ハンガリー)に移住しました。

テオドリックによって東ゴート王国が建国されたのは、西ゴート王国に遅れて497年のことでした。
首都は、西ローマ帝国の宮廷があったラヴェンナ

東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの同盟により、西ローマ皇帝廃止後、イタリアのほぼ全域を支配下におきました。

東ゴートの位置
ラヴェンナ


東ゴート王国の建国は、476年にオドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位した事件に端を発します。
西ローマ帝国を滅ぼしてイタリアを支配ていたオドアケルを、テオドリックは東ローマ帝国の要請を受けて暗殺しました(493年)。

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東ゴート王国は、フランク王国とならぶヨーロッパの大国となり、テオドリックは外交に力を入れ、近隣国と積極的に婚姻関係を結びました。
493年にフランク王クローヴィス1世の妹オードフレダ(アウドフレーダ)を正室に迎え、また自分の娘のティウディゴートを西ゴート王アラリック2世に、オストロゴートをブルグント公ジギスムントに嫁がせました。

これらの政策は、平和維持に必ずしも成功したわけではありませんでした。
上述したフランク王国と西ゴートと戦争(ヴイエの戦い)で、アラリック2世はクローヴィス1世に殺害され、アキテーヌは陥落しました。


東ゴート王国はアリウス派キリスト教を信仰していた
ため、ローマ教会とは結ぶことはなく、完全なるイタリア支配はできませんでした。
そのためテオドリック大王の死後はしだいに衰退し、535年から554年まで東ローマ帝国と争ったゴート戦争で東ゴート王国は滅亡しました。

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この記事も長くなってしまいました~。
クローヴィス1世から始まったメロヴィング朝の時代、同じキリスト教でもアリウス派を含むローマ・カトリック以外を信仰することは・・・
それは今も変わらずです。

キリスト教徒でもない、キリスト教圏外に住む私だから言えることがあると思うので、よかったらまたお付き合いくださいませ。

最後までお読みくださりありがとうございました。

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