正しく恐れるとは

恐れというものは、対象のことをよく知らない、得体が知れないものであるという場合に生じる心の状態だと考える。

未知の事象を恐れるということは、生命の自己保存本能に他ならず、危険を回避することは当然に必要な能力ではある。

未知のものであっても、観察や接近を繰り返すことにより正体が明らかとなり、特段危険ではないと判断出来れば恐れはなくなる。慣れというヤツだ。

一方、観察を続けた結果、やはりこれは生命に関わる危険なものだと判断して回避することもある。危険な事象であるので危険性を知り対応策を持つ。これが"正しく恐れる"ということになると考える。

人を警戒して吠えていた犬が大人しくなるのも、危険が無いと経験が記憶されるからだろう。余談だが隣家の小型犬には(10年ほど経過しているにも関わらず)未だに吠えられる。なぜだ。特に構った事も無いのに。むしろ遊んで欲しいというサインなのか。動物を飼ったことのない身ではわからぬ。

大幅に脱線したので話を戻す。動物というのは自身ないしは群れの実経験のみでもって判断することになるのだが、我々には書物であったりインターネットであったり、遠く離れた他者の経験を情報として獲得する知恵がある。賢者は歴史に学ぶというヤツだ。

しかし世の中に溢れる情報というのは玉石混淆で、本当に価値あるものであると判断するのは結構難しい。専門家の看板を立ててご高説を述べている先生が、実は自分の商売の営業として"部分的には正しい"話をしていたりすることもある。

20年(あるいはもっと前か?)ほど前のインターネットにおいては、"誰が言ったか"ではなく"何を言ったか"が重要とされていた。そのくらいの時期はインターネットにアクセスするという行動は限られた専門家や趣味人の特殊スキルで、一定以上の専門性を持ち得ていることが暗黙の前提と見做されていたからではないかと見ている。

しかし現在は、スマートフォンなどの普及もあり、どんな人でも全国・全世界に向けて自分の考えを発信することが出来る。発言者が専門家であるのかそうでないのか、受け手側も注意して読み解く必要があり、1周して"誰が言ったのか"という部分にも気を配る必要が出てきた。むしろ発言者の属性、連続性が正しさの担保になっていると言ってもいい。

なお、誰がという部分で実名(戸籍名)を出せと騒ぐ人も一定数いるが、別分野で活躍する同姓同名の人が多数いる身としては戸籍名を掲げたところで何の価値もないので、いまや実年齢の半分以上の期間使い続けているハンドルネーム(この単語も既に瀕死か?)の方が同一性の担保になったりするのである。また脱線した。

偉い先生が言っているのだから正しい筈だ、というのはよろしくない。その先生が間違えていたときに、信じて自分が不利益を被ったとしても、その先生が助けてくれるわけではないのだ。そして、誰が信頼出来るのかを判断するためには、やはり教養と呼ばれる基礎知識が必要になる。

あらゆる分野に対する深い専門知識を全員が得る必要は無い。というかそんなことは時間的にも不可能だ。しかし、どの専門家が信用出来るのかという知見を積み重ねることは出来る。それもまた、正しく恐れるために必要な知恵なのではないだろうか。


余談:極めて個人的な感覚だけど、怪しいことを言ってる人は何となく文体や喋り方から危うい匂いを感じたりする。言語化出来ない直感のようなものだけれど、その感覚を何かしら人に伝わる形に出来たら面白いのかなぁ、とは思ったりして。

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