或る人が生きる証。

あたしは今年の12月で四季を20回迎えることになる。いろいろなものを見てきた。酔い潰れる父、泣き崩れる母、世界が不景気になり、地球が汚されてゆく様を気づかずも確実に目にしたのだ。
見たいものしか見えなかった幼少期。好きだけを見つめ、好きだけをするだけの四季。あたしはこれで良いのだと他人から言われ自覚もなく無防備に走り回る人生であった在の時。
今はどうか、20歳になるがあたしはどうなのか。在の頃の様に、好きだけを見つめ、好きな事だけし続けているのか。そうでは無いのだろう。好きでは無いよくわからない欧州文化を学び、意味のわからない知能検査を学び、無駄に知識量だけは一丁前に課金をし、つけている。好きなものはまた別なのに。何故何故なのだ。其れだけが過ぎる生活を送る日々は良くあった。だが、あたしはこれを選んだから。好きを選んだ結果だから、妥協せず好きだけ選択したその先は好きではなかっただけなのだ。だから、あたしは此の事を否定はさせず、あたしはあたしの人生なのだ。失敗の一つや2つ無い人生などつまらないのだ。と自分を言い聞かすことには時間が経ったが、此の事はやがて身に染みて良い判断だと感じる時が来る。其れ迄我慢なのだ。
今の世の中は、欲しいものがすぐ届く。待つ事を忘れさせるのだ。食べたい時に飲食店に入ると欲しい品が出てくるし、欲しい本が有れば梅田のルクア11階に行くと置いてあるのだ。そんな我慢をしない人生はあたしには耐えれない技術の進化でせっかちになるのは御門違いなのだ。其れを誰も気づいていない。保育園の時に、一人だけ起きている昼寝の時の様に、静かに黙ってバレない様にしている。それではだめなのだと此文を書いて気づいたのだ。
あたしは、皆と共に成長する。歳は関係ないのだ時代が変われば、人が代わり歳は関係ないのだ。
大切なのは何年生きたかではない。何をしたのかである。
長く生きたからといってのうのうと生きている人生はあたしには不向きだから、あたしはあたしの速度で時代を駆け走る。
何を言っているのかわからないであろう。
あたしもあまりわかっていないのだ。其の所を分かって頂きたい。

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