ゾンビとサメ

小学校6年生のころだったと思う。記憶の中の周囲の小学生がいけ好かない静岡市っぽい感じなのできっと小学校6年生のころ、サメの絵を描くのが好きでひたすら描いていたら周りの小6男子も描き始めて卒業記念かなにかの思い出寄せ書きがサメだらけになったことがあり、とにかく男子はサメが好き。サメを好きじゃない男子は単にサメに出会っていないだけ。鶏肉を食べたことのない人が鶏肉のおいしさを語らないのと同じ。ユニバーサルスタジオでもなぜサメのアトラクションが不動の四番バッターなのか、みんなサメが好きだから。
そしてゾンビも好き。好きすぎる。しかしながらサメ好きゾンビ好きの世界は際限がなくて奥が深すぎて私のような浅瀬でぱちゃぱちゃと水遊びしているような人だかりの中の小粒みたいな存在が語っていい世界ではないこともわかる。

そして日本で映画のゾンビといえば米国劇場版ではなくダリオアルジェント監修版(94点)のことをいうわけで日本のダリオアルジェントマニアの最高峰は吉本ばなな先生で、吉本ばなな先生にいわせるとゾンビ好きの人たちにとって世の中はこう見えているわけで、わかるよ。死んでいるよね。比喩じゃなくて。みんな、生きてますか?

草間彌生は病のせいで実際に世の中がゆがみ水玉に見えていたのでそのまま作品にしたときくし、笙野頼子先生も「なにもしてない」や「居場所もなかった」(福光しげゆき先生の僕の小規模な失敗が好きな人に限り95点、フラットにみると続く「レストレスドリーム」を含めて三冊あわせて90点)の世界はマジックリアリズムっぽく自分のありのままを描いただけだろうし、特定の人にとって世の中はゾンビ映画そのもの。つらかろう。

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