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「占領の囚人たち」を見た日記

5月4日、初めて飯能に行きました。毎日通勤に使ってる電車の、帰りのほうに「飯能行き」というやつがあること知ってて、でもこれまで行ったことってなかった。「所沢行き」もあるよね。所沢ってなんか遠そうなイメージあるから、飯能はそれよりも近いかんじかな。
全然ちがう。飯能は所沢よりもっと先だ。でも1本で行けるからたいへんではない。同じ電車に長めの時間乗って移動するのは大好きだ。
飯能に着く。気になってたラーメン屋を見るけど臨時休業。代わりにカフェでケーキを食べ、生クリームたっぷりのカフェモカを飲む。
そろそろ時間だ。ちょっと歩いて、百貨店のなかにある市民活動センターに向かう。「『占領の囚人たち』映画会会場」と張り紙がしてある。実際には映画ではなくて、演劇の記録映像の上映会です。最前列が空いていたので姉と並んで座る、「あの」とうしろから声をかけられて、振り向くと、ずっと会っていなかった友だちがいるのでびっくりする。うれしい。友だちとちょっと近況を話したり、もらったチラシを眺めたりするうちに上映開始の時間が来る。
チラシには、作品中の暴力・性暴力の表現に関する注記がある。信頼する。
少しの機材トラブルのあと、二部構成の演劇の上映が始まる。
『占領の囚人たち』。ユダヤ系イスラエル人の作家が、パレスチナの元・現囚人たちとつくった、ドキュメンタリー演劇です。上演されたのは2023年2月。その記録映像を見ました。

※前情報なくこの演劇を見たいひとはこれから先を読まないでね。

第一部『Prisoners of the Occupation』東京版

ざわめきがきこえます。男のひとが手に鎖をかけられる。
尋問は穏やかに始まる。水をくれる。突然声を荒げる。平手打ち。
演劇によって、実際に行われた暴力が再現されているんだなって思います。
最初にもらった案内のチラシに、「パレスチナの成人男性の4人に1人は収監される」とあった。それくらい悪いことをしているってことではなくて、それくらい不当な扱いを受けているっていうこと。これは特殊な経験の再現ではなくて、占領のもとで当たり前に起こってる不条理の再現。
恋人に危害を加えてやるぞという脅迫。胸ぐらを掴む。仲間は自白したぞ。声を荒げる。
こういう暴力や脅迫が本当におこなわれてしまっている、ということを受け取ろうとするとき、声がかかる。
「悪くないけど、優しすぎる」
舞台が明るくなる。
尋問のシーンを演じていたふたりの役が、今度は「そのシーンを演じていた役者たち」に変わる。「日本人の役者たち」は「パレスチナ人の役者」に、演じたシーンがどれだけ現実と離れていたかの説明を受ける。
これは、「収監される」という記録されない経験を演劇を通して伝えようとするドキュメンタリーで、そして、実際にその通りを経験しない限りは真には知ることのできない暴力・痛み・屈辱・喪失……いろんなことを、それでも伝えるために演劇をつくろうとする、創作についてのドキュメンタリーなのでした。

ちょっと先に第二部の話をします。

第二部『I, Dareen T. in Tokyo』
登場人物はふたりの女性です。ひとりはエイナット・ヴァイツマン。ユダヤ系イスラエル人の作家で、この演劇の作者です。もうひとりはダーリーン・タートゥール。パレスチナ人の詩人です。パレスチナ人の権利についての演劇をやろうとして発表の場を奪われていた作家と、詩を書くことで逮捕されてしまった詩人。第一部が役者たちが芝居をつくりあげるドキュメンタリーとすると、第二部はふたりの作家がひとつの作品をつくっていくドキュメンタリーになります。
演じるのはひとりの役者で、ふたりのストーリーを交互に進めていく。
ダーリーンがエイナットの芝居「占領の囚人たち」に触れて、「男の話ばかり語られて、抵抗運動のなかで女性はまるでいないみたいにされる」というようなことを言う場面がある。エイナットは衝撃を受けるし、見ている私はうれしかった。第一部で感じたさみしさ、女性は脅しの道具にされる恋人とか外で待ってるひととしか描かれないのかなってってさみしさが、ちゃんとすぐになぐさめられることってあるんだなって。
舞台が進むなかで、ダーリーンが戦っている相手は、不条理な占領もそうだし、女性の声が消されてしまう男性主体の社会もなんだとどんどんわかる。これは違う立場にいる女性ふたりが一緒に戦う友情の記録でもある。
ふたりの? そう。
でもふたりだけのではない。
エイナットがダーリーンに「私の声をあなたに貸す」という場面があります。刑務所に入れられて外界との接続を絶たれるダーリーンの代わりに、エイナットは芝居をつくることにする。このお芝居です。日本人の森尾舞さんが演じるこの演劇は、元はエイナットさんが演じていた。
森尾さんもふたりに声を貸したってことだなと思う。第一部の演劇も、役者たちはみんな、占領のなかにいる囚人たちに声と体を貸していたんだなって。この第一部・第二部のタイトルにある「東京版」「in Tokyo」がすごく大事なのでした。
第一部では、収監された主人公のストーリーと、収監された経験を持つパレスチナ人の役者とともに演劇をつくる日本の役者たちのストーリーが交互に進んでいた。そのなかで、パレスチナの置かれている状況、これまでの抵抗運動についても説明がある。「日本の役者たち」役の態度はときどき的外れで軽薄で、それがたしなめられるのを見るたび自分自身の無知を恥じる気持ちになった。
私も全然知らなかった。33年生きてて、私が生きてたのはずっと占領のある世界だったのに、それをふつうの世界だとおもってしまってた。だからもうこれまでの「ふつうの暮らし」はしたくないなって、デモに行ったり首相官邸に意見を送ったりそうしたってことをツイートしたりしてるわけだけども。
第二部には、日本版の上演にあたってダーリーンさんから「何が重要かをわかりやすくするために」と削除の検討を申し入れられた場面があり、相談のうえ残すことになったことの説明がある。
(子どもに対する性暴力とそれのトラウマについての語りを含む場面でもあるので、ひとによっては本当につらい場面だと思う。だから「そのままあったほうがいい」と言うことはできないのだけれど、)相互のやりとりがあってその場面が残されたということは、「大きい運動の成果のためには、個人の傷つきは我慢すべき」みたいにはしないってことで、うれしい。

書きたいことがいっぱいあって全然まとまらないな。
見終わって、ぼーっとしてしまう。すごい作品に出会えたって気持ちと、占領があるからこそ生まれた作品なんだよなってことが頭をごちゃごちゃさせる。占領について伝える作品でもあったし、創作をするということについての作品でもあった。マイノリティとして書くことを選んだ自分と重ねてワーッてなる部分があったりもしたんだけど、その説明をするにはいまの世界の状況が悪すぎるな。もし占領がなくなったあともいろんな力を持つ作品とかんじて、その力を確認したい、占領に終わってほしい、まず停戦を……とかを思います。

少しの休憩のあと、翻訳・ドラマトゥルクを担当された渡辺真帆さんからのパレスチナの現状の説明と、軽い質疑応答の時間がある。
これが2023年2月の公演の記録ということは、今の(2023年10月以降の)状況はもっとひどいってこと、演劇に描かれるのは「ガザの」様子ではないからなおさらそうだってことも改めて知る。
どうしたらいいんだろう。

とにかく、ユダヤ人のエイナットさんがパレスチナ人たちと演劇をつくって、東京公演のために日本人たちもその一緒につくる仲間に加わって、「みんなで」つくったっていうのがすごく希望だってかんじた。かんじました。

第二部の終わりには現在(2023年2月の公演にとっての「現在」です)のエイナットさんからのメッセージもある。「なんでこんな活動をしているのか、よく訊かれます」とエイナットさんは言っていて、そのあとにどう続くのかを、みんなきいてほしい。

配信を5月18日までしていて、その後も各地で上映会があるようです。チェックしてみてね

(配信のサイト⬇️)


会場を出て、私と姉と会場で偶然会えた友だちとの3人でカフェに行って、また少し話をしました。いろんなひとといろんな話をしたいっておもうとき、そうやっておもえることがうれしいな。
うまくいけばいいと思う。

●上映会のときにいただいた、ガザ支援の協力を求めるチラシの紹介。翻訳・ドラマトゥルクを担当された渡辺さんによる支援です。

これは上映会に行ったあと描いた感想の絵