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夜明けまでバス停で

死という感情の揺れに乗じる政治利用

ひとは目の前で起きた出来事や事象
そこに物語を求める
それは自分だってそう
誰も他者の心の中はわからないし、そうしないと自分の中で理由付けや理解は出来ないのかもしれない

だから多少創作が過ぎたとしても彼女(役名は三知子)がなにを思っていあのバス停に夜明けまでいたのか
それを僕も知りたいと思い映画館に足を運びました

『人と仕事』『東京2020オリンピックSIDE:A』『東京2020オリンピックSlDE:B』
コロナ禍を記録したドキュメンタリーはあったものの創作、エンターテイメントとしてそこを描いている作品にはまだ出会ってなかったので、何処までが事実で何処までが創作なのかはわかりませんでしたが、コロナ禍を僕らは何を考えそこに居たのかを再確認する意義はあるかもしれないと思い前半は観ていましたが…


2021年10月8日公開 人と仕事


2022年6月公開 東京2020オリンピックSlDE:A SlDE:B

監督の主張の本丸が顕になる中盤以降
そして軽んじられる彼女の命

中盤から三知子がコロナ禍に飲み込まれ職だけでなく住む場所も失いさ迷っている中で新宿中央公園にたどり着きます
そこで根岸季衣さん演じる派手婆を出会います

そこから物語は予想外の場所へ動いて行きます
さらに三知子が出会う柄本明さん演じるバクダン

ここから監督が主張したかった事があからさまに見えてきて物語は瓦解の方向へ…


ここからネタバレ含みます

柄本明さん演じるバクダン

完全に60年安保の残り火を未だに焚き続ける存在で、恐らくは監督さんの主張の代弁者的な存在として作品内に産み落とされたのだと思います

確かに社会のこれまで積み重ねた理不尽や歪みがコロナ禍で一気に噴出し顕になったとは思います

ですが、今少しだけ冷静にこの3年余りを振り返るなら、みんな見えないウイルスの脅威に怯え、先の見えない毎日に疲弊し、程度の差こそあれどこかみんなおかしくなり、病んでいたんじゃないかと

自分も負の感情に飲み込まれた時期はありました

どうにもならない、ぶつけようのない感情を国や政府や政治家にぶつけるのも一定の理解は出来ます

ただコロナ禍でそれを反政府運動に結びつけるのはかなり飛躍があると感じたし食い合わせがどうにもよくない

もっとしっかりしてくれって思いは確かにありましたが…

だから完全に作品の描きたいものが彼女の生きた道から怒りを纏った政治運動にシフトしてからはハッキリいって白けてため息つきながら観ていました

怒り方が足りない

もっと怒れ

わかります

理解出来ます

コロナが蔓延した当初、たったの2週間が我慢できないのかという人達の声や
早々に国や都からはエンターテイメント業界の支援は考えていないと一蹴され、存在意義が揺らいだアーティストがそれでもって産み出した『家で踊ろう』そして動画のリレー

そこにバズってるからというだけで当時の支援に対して冷たい対応をした国側の首相が無配慮にまるのりする

あの動画がアップされた時のエンターテイメント業界に関わる人達の怒りや呆れの反応は今でも忘れませんし、あの件だけで当時の首相は今でも僕は許してはいません

だからエンターテイメント業界の存在を否定されたかのような状態に置かれた皆さんの怒りや覚悟は理解します

でもそれを行うのは『夜明けまでバス停で』という作品ではないと思いますし、実際に起きた事件の、失われた命の、そこに生まれた揺らぐ感情に乗じて行ってほしくなかったと僕は思いました

創作者は死者に自身の主張を映し出して描くものという意見を頂きましたが、それは坂本龍馬だったり渋沢栄一だったり語り継がれる偉人といわれる大河ドラマになる存在なら良いと思います

彼女の死は果たしてどうでしょうか?
語り継がれるでしょうか?

主役がバクダンに移って以降のこの作品に彼女の生きた道に、命に寄り添う気持ちがあったでしょうか?

この作品の結末は彼女を救っていたかもしれない
でもそれは監督さんが描く自分達の主張に添う選択、生き方を彼女が選んだ結果としてであって、彼女がそれを果たして選ぶのだろうか

これはリベラルが国葬を政治利用と批判した事と同じ意味合い、文脈ではないだろうか

批判力、反骨精神は大事だと思います
でも怒りだけで、怒りを先鋭化させた結果が招いたものは

内ゲバ
山岳ベースでの集団リンチ
あさま山荘事件
ダッカのハイジャック
テルアビブ空港乱射事件

他にも多数

つい最近だってSEALDsを持ち上げるだけ持ち上げて見捨てたんじゃないでしょうか

全てにおいて総括をせず一時熱にうなされたかのように集まり活動して時期が過ぎたら蜘蛛の子を散らすように居なくなる

その繰り返しが何を呼んだのか

政治を語り難くしたのではないでしょうか

保守も与党も信用出来ないけどリベラルや野党はもっと信用出来ない

それが緩やかに貧しくなっていても変化を選べない要因のひとつではないのでしょうか

手法、手段を何故変えずにずっと同じでいくのか

安易な共感でこれがこの国の闇だって呟かれるファスト化した言葉は未来に向けて実を結ぶ可能性は限りなく低いと僕は考えます

そのアプローチのままでいいんですか?

その怒りだけで精製されたバトンはおそらく繋がらないと思います

なにより彼女に寄り添っていると思えなかったし、その意味だけで僕はこの作品を否定します

中曽根さんがどうとか、宇野さんのスキャンダルがどうとか、後藤田さんがどうとか、『夜明けまでバス停で』という映画には絡めてほしくなかったです

政治色が色濃く出た作品なので思うところを纏めてみました
ちょっと真面目過ぎるかもしれないけど

異論はもちろん認めます

                                                          以上この稿終わり


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