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ユネスコ機関が鉄道遺構「高輪築堤」の解体中断を要求
2022年2月18日、世界文化遺産の登録審査を担う国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関イコモスがJR東日本に対し、東京都港区の高輪ゲートウェイ駅周辺で出土した鉄道遺構「高輪築堤(たかなわちくてい)」の解体中断を求める文書を送ったことが分かりました。
高輪築堤とは
高輪築堤は、明治5(1872)年にわが国初の鉄道が開業した際に、海上に線路を敷設するために築かれた鉄道構造物です。平成31(2019)年4月、品川駅改良工事の際に石垣の一部が発見されました。
築堤とは、海の浅瀬に築いた堤で、まるで海の上を鉄道が走るような風景になっていたようです。以前、三田から大木戸門を過ぎて品川へ向かう東海道を歩いたとき、まさか海の上を鉄道が走っていたとは思いませんでした。
歌川芳年「高縄鉄道之図」の浮世絵で当時の様子がうかがえます。
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第一京浜(国道15号)はかつての海岸線でした。高輪2丁目の交差点には高輪海岸の石垣石が残っています。
第一京浜より東側はかつては海であったところで、高輪ゲートウェイ駅やその西側の隣接エリアも海でした。
![](https://assets.st-note.com/img/1645395060078-SoKIhnJim0.png)
今回築堤が見つかったのは、高輪ゲートウェイ駅の西側隣接エリアでした。
築堤について「保存状態が非常に良く、国内的にも国際的にも非常に意義深い」と評価。JR東には解体を中断した上で、高輪ゲートウェイ駅周辺で進む再開発計画を見直し、残る部分を全面的に保存するよう求めた。
とのことです。
なぜ海の上を鉄道が走ることになったのか
高輪築堤は、明治5(1872) 年に我が国初の鉄道が開業した際に、海上に線路を敷設するために築かれた鉄道構造物です。明治政府は、明治2(1869) 年に、当時の横浜は外国からの大型船がとまる国際的な商業都市で、横浜と東京を結ぶための線路が敷かれることが決定しました。
![](https://assets.st-note.com/img/1645396620068-pLTbwWZoSz.png?width=800)
高輪周辺の土地は国防上必要であるとの理由で兵部省が鉄道当局への引き渡しを拒んだため、本芝から高輪海岸を経て品川停車場に至るまでの約 2.7km の区間は海上に築堤を建造し、その築堤の上に列車を走らせることとしました。
現在の田町駅と品川駅の間は、海を埋め立てた築堤(土手)の上を汽車が走ることになりました。今まで海だった場所に線路が敷かれたので当時の人々は「海の中を走る鉄道」と言っていたようです。
JRは再開発の計画変更
JR東日本は、2021年4月10日(土)に「高輪築堤」の現地見学会を開催するなどしてします。JR東日本は2024年度に予定している再開発の計画を変更し、およそ120mを現在の場所に保存するほか、およそ30mは移築、保存などに行う予定にしています。それに伴う費用は400億円にものぼる可能性があるそうです。
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