勝海舟が眠る湖畔でみた光
勝海舟は、慶応4年(明治元年1868年)西郷隆盛との会談で、新政府による江戸総攻撃の回避をまとめた人物です。
勝海舟は、江戸の無血開城直前の池上本願寺での西郷隆盛との最後の打合せに向かう途中に立ち寄った洗足池(大田区)の景色を大変気に入り、別荘である清明文庫を構えました。
本日2022年1月5日、晴明文庫を改修して一昨年2020年にオープンした大田区立勝海舟記念館に行きました。
江戸の無血開城をまとめ、坂本龍馬の船中八策に影響を与えた勝海舟は、どんな人物だったのか、興味をもったからです。
驚いたのは、勝海舟は、敵意をもってきた人を虜にする大した人物だったことです。
また、有名な話ですが、殺しに来た坂本龍馬を弟子にしてしまうほどの人物でした。
勝海舟という人は、どのように見識を深め、日本の未来を見据えたのでしょう。
剣術、禅で胆力を鍛え、オランダ語の辞書を書き写すなどして蘭学を学び、また豪商の支援をうけ、佐久間象山より兵学をおさめていくなかで見識を深め、人脈を広げたとされます。
1853年7月に黒船来航を機に「海防意見書」を提出したことで、幕府に登用されました。海防意見書は、海軍増強や人材の登用など、すでに船中八策につながることが記されています。まさにロシア帝国のプチャーチンも長崎に来航し、西欧列強の接近による緊張状態が高まった時期でした。
勝海舟は、福沢諭吉らとともに咸臨丸でアメリカへ行き、アメリカ市民が政治に参加していることに驚きます。このとき驚きとともに見聞を広げ、議会政治などまったく異なる文化を目の当たりにします。そして外国を排斥する攘夷は無理だという考えに至ります。
展示の解説で眼をひいたのが次の文言です。
イギリスが後ろについている新政府軍とフランスがついている幕府軍が江戸で戦うと代理戦争となり、日本の独立が危ぶまれる状況でした。そこで、行われたのが西郷隆盛と勝海舟の会談でした。
そうした大局をみる力をもち、違う立場であっても日本の未来を憂う西郷や坂本とも一致点を見つけ、解決策への光を見出すことのできるすごい人であったと思います。
博物館のあと、勝海舟が眠るお墓にお参りにいきました。そして日本の地が外国勢力の支配下にならないように導いてくれた勝海舟にお礼をお伝えしました。
現代の日本も、外部環境が劇的に変わるなか、不毛な議論をやめ、協議をした上で日本としての国是を定めるべきであると思います。幕末の方々が一致点に光を見出したように。
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