「実践」、「プラクティス」、そして希望

 いまだに私は「社会福祉の常識」がわからないので困っている。何歳になっても私にとっては名古屋弁が母語であるように、社会福祉よりも文化人類学のほうが認知的な母語になってしまうのかもしれない。
 いま少し困っているのは、「実践」という言葉の意味である。文化人類学や社会学では「実践」の指す2つのニュアンスが区別されてきたが、社会福祉で「実践」が語られるとき、どちらを指すのだろう?と戸惑うのだ。

実践とプラクティス

    2つのニュアンスのうちのひとつは、古代ギリシャのプラークシス(praxis)に由来する「より自覚的な決断と反省的思考をそなえた実践の営み」で、日本語の「実践」はこのニュアンスであることが多い[田辺2003:12]。
 もうひとつは「慣習的行動」、「我々の生活における、基本的に反復し、慣習化された側面を強調している概念」[福島2022(2010):148]で、しばしば「プラクティス」と表記することでプラークシスのニュアンスの濃い日本語の「実践」と使い分けられてきた。プラクティスには、慣習的ではあるもののぼんやりと意識されている行動から、暗黙知(tacit knowledge)に基づく行動まで含まれる。
 暗黙知とは哲学者マイケル・ポランニーによる概念で、言語などの明示的・形式的表現では伝達不可能な知を指す。彼は「私たちは、言葉に出来るより多くのことを知ることができる」と述べ、その例として我々が人の顔を識別できるのにもかかわらず、どのように識別できるのかを表現できないことを挙げた[ポランニー2003(1969):18-20]。要するに、言葉に表現しようがないものの、行為としては果たせるし、実際に果たしているような知である。

 一方、社会福祉業界では「現場実践」と「学術研究」という二項対立が用いられがちだ。そして現場とアカデミアが手を取りあって政策批判や政策提言をしよう!世の中をベターにしよう!という構図がしばしば見られる。
 そのこと自体は、私も大賛成である。
 だが同時に私は「む?」ともなってしまう。

その「実践」って、プラークシスのニュアンスですよね…
じゃ、私たちのプラクティスはどうなるの…?無視…?

うまく言葉にできない「実践」

 現場のプラクティスとは、たとえばこんな感じだ。
 昭和戦前期、知的障害児入所施設のさきがけである滝乃川学園[ママ]の保母[ママ]として働いていた水谷さんと安藤さんは、「子供たちと同じベッドで」寝起きし「二四時間」のケア労働をしていた[吉田・一番ケ瀬1992:80]。

…空襲警報が鳴りますと、子供たち一人ひとりに防空頭巾をかぶせて、ありったけの物を着せて、懐中電灯をつけて防空壕へ連れてまいるのですけれども、せっかくみんな入れたと思うと、また飛び出して走り回る子がいるんです。怒っちゃって。拘束されるのがいやなんでございますね。それでもようやく壕の中に入れて、私がよくつくり話をして、落下傘の話でも、きれいな空に白い落下傘が舞ってきてねとか、そういうつくり話をして聞かせたり、あるいは歌を歌ったりしました。

吉田・一番ケ瀬1992:82

 ここには「現場実践」がプラクティスに下支えされている気配を見出すことができる。空襲警報が鳴ってから防空壕に避難するまで15分かかり、保母ひとりが4人の知的障害児をケアすると仮定すると、このインタビューの背後には語りつくせない行為の束が潜んでいると推察される。

 現場人のひとりとして、想像する。
 知的障害児とカテゴライズして語ったとしても、実際には防空頭巾をかぶせられる際の子どもたち一人ひとりの反応は異なったことだろう。さらに「ありったけの物を着せる」といっても、誰に何をどう着せるのかの判断、着せる際の手の動きと視線の動きの連動、ある子どもに衣類を重ね着させながら他の子どもたちの様子もうかがうなどの複雑な過程が進行していたはずである。

 さらに、本人の意識にのぼるかのぼらないかレベルの試行錯誤を想像してみると、こういう感じになるだろうか。
 「○○が服を着るのを嫌がった、どう着せようか。○○はあの子と違って手のひらではなく手首をこういうふうにそっと掴んで袖をとおしてあげれば、大抵うまく着てくれたな、今回もそうやってみよう。…うまくいかない。もう少し手首を強く持ってみようか」。

 このように想像することはできても、実践者当人が実際のプラクティスについて詳細に語ることは難しい。ルーティン化し、身体性に根差した、言語化困難な知とはそういうものだからだ。

プラクティスの記述分析のために 

 言語化困難なプラクティスをどう記述するかという問題には、文化人類学の民族誌的記述も直面してきた。ある土地に暮らす人々が自明のうちにやっていることについて質問しても、決まり文句のような返答しか得られないのではないか?といった問題である。文化人類学者・福島眞人は、認知科学の成果を参照することで、この問題を判断・推論過程についてのモデル化の問題として位置づけ直した[福島2022 :第1章]。

 認知科学とは人間の脳の働きをコンピューター上のモデルに翻訳する発想から出発し、知能や認識がどんな仕組みで働いているのかを解明を試みる学問領域で、人工知能、認知心理学、言語学、哲学など幅広い分野にまたがる。このなかに、専門家の専門知識をデータベース化し、彼ら・彼女らの判断をコンピューターに模倣させようとする試みがあった。このシステムを「エキスパート・システム」と呼び、そのシステムのための知識獲得・構成の方法を知識工学と呼ぶ。

 知識工学者は専門家へのインタビューを通して獲得された知識を、コンピューターが処理可能な形にコード化して知識ベースを作成し、次にそれらを使うための推論エンジンを設計するという手続きをとる。エキスパート・システムの先駆者ファイゲンバウムは、専門家の知識を2つに分けて考えた。教科書に載っているような知識と、経験を通して獲得された「妥当な判断の規則」「妥当な推論の技術」を構成する知識である。

 困難は、専門家へのインタビューを通して経験的知識を獲得することにあった。専門家自身が言葉にできない経験的知識を、それについて知らない知識工学者が聞き取るのだから、当然といえば当然であろう。知識工学者たちも、暗黙知の言語化の困難性という壁に突きあたったのである[福島2022(2020), コリンズ&エヴァンズ2020(2007)]。

 彼らはとりあえず教科書的な知識からプログラムを作り、その結果を専門家に見せるが、実際の思考過程をほとんど反映していない建前から作られているため欠陥だらけのものとなる。そこで知識工学のインタビューのベテランは、専門家の語り口を言葉通りに受け取らず、専門家の手続きを慎重に観察することを強調した。専門家は「このデータを使う」と口では言いつつ、実際にそのデータには一度も目を向けていなかったり、別の段階で使っていたりすることがしばしばあったという。
   
    つまり専門家に「どのように推論しているのか」と直接訊いても、当たり障りのない教科書的な答えしか返ってこないので、知識工学者は具体的な文脈を参照することで「このように推論しているのだろう」というモデルをつくり、専門家の思考過程をシミュレートしていったのである。

 ここから福島は「簡単に言明できないタイプの、暗黙知的な知識」の記述分析を試みるには「環境の記述~媒介項(例えば独特な言語使用とか、教育の過程)~認知モデルという三項の間を複雑に往復するという方法を護持しなければならない」と結論づけた[福島2022(2010):90]。

 文化人類学であっても、SW研究であっても、実践がプラクティス的な知に支えられているかぎり、実践者の語る言葉を素朴に記述分析するだけでは、実際に行われていることとズレてしまう。したがって詳述困難な実践の分析を、聞き取りの結果だけを頼りに無謀に試み続けるのではなく、実践者の語りから得られる情報には限界があることをあらかじめ織り込んだうえで参与観察を行い、①実践者の語りや行為、②社会的文脈や物理的環境、③実践者個々人の、あるいは実践者集団で共有されているであろう判断や推論のやり方についてのモデル、つまり認知モデルの3つのあいだの関係を念頭に、仮説検証や解釈・再解釈を重ね、より妥当な全体像を見出していくのが妥当だろうということだ。

 この理論を社会福祉の現場実践の記述分析に応用することで、SWerの実際の思考過程とはズレた「教科書的な記述」に陥ることを回避しつつ、日常的実践の記述分析への道を開くことができるのではないだろうか。


 興味深いことに、これと同型の方法は、現場実践で日常的に用いられている。社会的文脈や物理的環境を踏まえ、利用者が語った言葉だけで判断するのではなく、具体的な文脈のなかでその人がこれまでどう振る舞ってきたかという蓄積データをもとに、その利用者の認知についてのモデル――「おそらくこう推論しているのであろう」――をつくり、利用者のより深く妥当な理解を目指すという方法である。

 この点が私にとっていよいよ興味深く、かつ希望を抱くところでもあるのだ。浅学ながら社会福祉学を学ぶほど、この研究領域が自己回帰的な語り口、つまり、事あるごとに自らの理論や方法論を省み、場合によってはその省察を再帰的に理論に組み込みながら研究を進展させるという伝統をもっていると私は感じているからだ(いつか書きたいです)。

 ゆえに、現場実践で暗黙のうちに採用されている方法論が、日本の社会福祉学に「逆輸入」されれば、「専門性」「知識」「資格」「学歴」といった既存のあるいは制度的な枠組の外側で、もっと直接的に、もっとのびのびと、お互いの豊かさへの理解を深めあうことができると思う。

 現場とアカデミアの裂け目は、私たちのあり方次第で、意外と簡単に乗り越えられるのかもしれない。私、先天的楽観主義者だもんだで、かんわー、どーしたってこうなってまうがね(←名古屋弁)。

<参照文献>
■コリンズ, H. & エヴァンズ, R.
2020(2007) 『専門知を再考する』, 奥田太郎(監訳), 和田慈&清水右郷(訳), 名古屋大学出版会.
■福島眞人
2022(2010) 『学習の生態学 ―リスク・実験・高信頼性―』, ちくま学芸文庫.
■ポランニー, マイケル
2003(1969) 『暗黙知の次元』, 高橋勇夫(訳), ちくま学芸文庫.
■田辺繁治
2003 『生き方の人類学 ―実践とは何か―』,講談社現代新書.
■吉田久一&一番ケ瀬康子(編)
1982 『昭和社会事業史への証言』, ドメス出版.