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敗戦前後、むき出しの時空間

伝えづらい「楽しさ」

 シェルター<かなりや>は、外部からはそれなりにシビアな現場と映るようだ。

 法制度上は無料低額宿泊所で、困窮状態にあり安定した住まいを喪失した人のための入所施設である。障害者、高齢者、母子世帯はじめ複数人世帯、未成年、DV被害者、刑務所出所者等々、いろんな人が利用する。しかも、他の施設では対応できないとされる人が多い。
    当然、いろいろな人と出会うし、日々いろいろなことが起きる。想定外の苦難に遭っている人に出会い、一緒に泣くこともある。想定外の動きをする人がいて、絶句することも多い。

 なのに、なぜスタッフはそんなに明るいの?と問われることがある。
――明るい?……確かにそうかもしれない。
なぜって…楽しいから。
もちろん、眉間にシワが寄ることもある。
でも、楽しいのだ。

 この手の「楽しさ」は、なかなか伝えづらいものがある。
 支援者仲間でもこうした感性を共有できる人もいて、出会うとすぐ意気投合する。だがそうでない人々とは、ずっと噛みあわない感覚が続く。奥歯に何かがはさまっている感じが、ずっと続くのである。
 その感じは、ソーシャルワークのネット記事などを読んでいるときの気分に近い。

「ソーシャルワークの常識」の「特権性」

 ソーシャルワーク関連のテキストから、こんな含意を読み取ってしまうことがある。

アセスメントをきちんとすべし。
  (そうすればどうにかなるのだ)
ソーシャルワーク技法を適切に採用すべし。
  (そうすればどうにかなるのだ)
使える制度やサービスにしっかりつなぐべし。
  (そうすればどうにかなるのだ)
制度の不備不足はソーシャルアクションを起こして解消すべし。
  (そうすればどうにかなるのだ)
社会問題はソーシャルビジネスを賢く設計運用して解消すべし。
  (そうすればどうにかなるのだ)

 毎度のように困惑する。
 それが通用する世界もあるだろう。
 でも、私から見える世界はそんなもんじゃないんだよね…

アセスメント?
ーーある程度情報がそろわないとムリでしょ。出会い頭にアセスメントなど不可能。まずは支援に入り、動きながら情報をキャッチしていかなきゃ。具体的な支援はアセスメントの前からスタートしてるもんじゃないのかなぁ。

ソーシャルワーク技法?
ーーある程度状況が落ち着いてないとムリでしょ。家賃滞納、強制執行真っ最中の場面で「生態学的視点のアプローチを」ってありえない。技法は、時間の流れが穏やかになって初めて云々できるもののような気がするよ。

使える制度やサービス?
ーーこれまた、ある程度状況が落ち着いてないとムリだよねぇ。手帳どころか医療にすらつながっていない状態の方が使える制度やサービスって、かなり限定される。当方じゃ、ふさわしい制度やサービスにつなぐ基盤作りが勝負なんだけどなぁ。

ソーシャルアクション?
ーーえーと、目の前の相手を支えるのには、全然間に合わないです。そこに割く時間もないです。時間に余裕のある方にお願いしたいです。

ソーシャルビジネス?
ーー誰かが「これはマネタイズ可能でござるね」とカネを払ってくれるような領域でないと、つまり資本主義に乗っかることのできる領域でないと、そもそも成り立ちませんです。

 「出会い頭」に住まい喪失者を保護するシェルターで働いていると、このように「ソーシャルワークの常識」は「状況が落ち着いたあとの話」ばかりに思えてならない。
 さらに言えば、空間的にも時間的にもガチッと構造化された特殊な時空間のなかでーー混乱のなかで絶え間なく生成する生の場から離れた、相対的に静態的な面談室的時空間のなかでーー初めて成立するとしか思えない。 いま流行の言い回しを使えば、これを信じられるのは、安定的に構造化された現場にいる者の「特権」なのではないか

 うーむ。
 そもそも、あんまり、楽しくなさそう…

 そんな思いが湧くと、私は77年前の情景を追い求めたくなる。
 敗戦前後、戦後福祉未満。いったん秩序が崩壊し、再構築がはじまるまでの、束の間の時代。
 その、ほんの束の間の時代の痕跡に触れたくなるのだ。現代のオーソドックスなソーシャルワーク像よりも、この時代の話のほうが、ずっと親近感が湧くからだ。

『「駅の子」の闘い』

 例えば、手に取りやすい本書である。
 2018年8月に放送されたNHKスペシャルをベースに記された、戦争孤児へのインタビューを中心とするルポルタージュ。

ホームページなどで公開されている全国各地の児童養護施設の沿革を調べてみると、終戦後に、戦争孤児の保護を目的につくられたとされる施設が次々と見つかった。[略]戦争孤児の保護が、今日の日本の児童福祉の原点ともなっていたのだ。

前掲書:18

 行政の支援が届かない段階で、私立の児童保護施設の人々が奔走し、法制度が実効性を発揮するまでの「間をつないだ」わけである。本書では京都市西京区の<積慶園>、東京都中野区の<愛児の家>などが取り上げられている。

…抵抗する子どもたちを何とか捕まえ施設に連れてきて、風呂で汚れきった体をきれいにしてご飯を食べさせてあげても、すぐに逃げ出し再び路上生活に戻ってしまうことがしょっちゅうだったという。
「子どもたちを連れてきても、施設で一夜を過ごすと、翌朝には半分に減っていることの繰り返しでしたよ。当時は、逃げることを『とんこ』と呼んでいたのですが、父が『また半分がとんこしていなくなってしまった』とよく嘆いていたのを覚えています」

前掲書:17

 現代の感覚では「抵抗する子どもたちを捕まえ施設に連れてきて」など人権侵害ど真ん中に感じられる。子どもたちは子どもたちで「捕まったら何をされるかわからない」と思っていれば、抵抗せざるをえない。とはいえ「本人の意向に沿って」彼らを放置していれば、たくさんの子どもたちが死に至ってしまう。
 相互理解、信頼関係をつくるための法制度的「場」が用意されていない、むき出しの時空間のなかで、支援が展開していた時代である。現代のオーソドックスなソーシャルワークは、こういう時空間のなかで、適切な構えを取ることを想定しているのだろうか。

…中には、愛児の家での暮らしが、路上での気ままな生活と比べると窮屈に感じられて、逃げ出してしまう子もいたという。
「別に堅い規則があったわけではなかったんですけど、かなり自由奔放に生きていた子どもたちですからね。逃げ出していってもまたご飯が食べられるからと帰ってきてはの繰り返しでした。
 家からものもしょっちゅうなくなりましたよ。みんな盗んでは上野に持って行って売ってしまうんです。
応接間にあった大きい大理石の時計が一晩でなくなったのだけはびっくりしました。どうやって持っていったんだろうと。
 でもしばらくすると戻ってきてごめんなさいと言うと、よく帰ってきたわねというのが母の口癖でした。来るものは拒まない人だったんです」

前掲書:129-130

 大理石の時計が一晩でなくなる。
 ニヤッとしてしまう。コレである。こういうエピソードに出会いたくて、私は77年前を求めてしまうのだ。<かなりや>スタッフならどう反応するか、シミュレートしてみよう。

 私:ああっ!!やられた~!
 つばめ:どうやって持っていったんでしょうねえ…
 すずめ:え?やっぱ人力?
    つばめ:だから、人力でどう運んだかってこと!
    私:…次回はもっと重いヤツを置くか…?
    つばめ:また買うお金なんてありませんっ!

…とまあ、おそらくこういう具合になるだろう。驚きつつも、微妙にボケとツッコミになってしまうのである。「この手のエピソードで深刻になり切れない」様をご想像いただければ幸いである。 

 「専門性」カテゴリーによって入所者を選別し、時間的にも空間的にもガッチリ構造化された安定的な施設では、このような事態はシステマティックに抑制される。想定外の事態がそう頻繁には起きないよう、あらかじめ設計されているのであろう。

 それに対し、むき出しの時空間のなかでは想定外が日常である。日常であるにもかかわらず、想定外は想定外なので、常にオリジナルでもある。私がこの仕事を「楽しい」と感じてしまうのは、人間が人間について抱く「この範囲内に収まる存在である」という暗黙の想定(カテゴリカルな)を出し抜くのが、やっぱり人間(個別の)であるという点においてである。

 だがもちろん、子どもたちの生を守るには、支援継続・施設存続のためには、どうしても法制度化が必要である。GHQも「日本の民主化」の「成功」を可視化すべく、すみやかに「浮浪児」を見えなくせよと命令した。
 そして1947年12月、敗戦から2年4ヶ月後、児童福祉法が交付される。秩序の再構築が進むと同時にむき出しの時空間は次第に消えていき、時代は差別のまなざしのもと、孤児と施設とがセットで不可視化されていく段階に移行していった(ようですね)。

『火垂るの墓』

 時間は少し遡る。
 言わずと知れた高畑勲監督のジブリアニメである。

 映画は主人公の「昭和20年9月21日午後、僕は死んだ」の独白で始まる。駅通路の太い柱の脇で、死にかかっている主人公に通行人の話し声がかぶさる。

キタナイなあ。
死んどんのやろか?
アメリカ軍がもうすぐ来るちゅうのに恥やでぇ、駅にこんなんおったら。

 現代の「ホームレス」に向けられるまなざしと大差ない。
    夜になったのか、駅員が柱の脇にぐったりする子どもたちの様子を見る。

こっちの奴ももうじきいってまいよるで。
目ぇポカッとあけとるようになったらアカンわ。

 胸がきしむ。ここまでシビアな場面に出くわしたことはないが、私もこれに似たまなざしを持っている。気の毒に、と思いつつも相手を冷徹に観察し、この先の展開を予測する「慣れてしまった者」のまなざし。むき出しの時空間で、瀕死の子どもに向けられる査定的まなざし。このまなざしは「アセスメント」の一種なのか、そうでないのか。

 場面は主人公の運命の分岐点、空襲のシーンに飛ぶ。14歳の少年は母親と別れ、4歳の妹と避難するが、避難所で母親が大怪我をしたことを知る。顔から腰まで包帯でぐるぐる巻きにされ、その包帯に大きく血がにじむ。瀕死状態である。
 町内会の顔役とおぼしき男性がいう。

今ようやく寝はったんや。どっか病院あったら入れたほうがええねんけどなあ、聞いてもろてんねん。西宮のカイセイ病院は焼けんかったらしいけどなあ…

翌日、母親は火葬される。

妹さん、どないしたんや?
ー―西宮の遠い親戚に今朝あずけてきました。焼け出されたら置いてもらうことになっとったから。
そうか。そらよかった。ほな私は任務があるさかい、これで。元気でな。

 助けたくても、助けられない現実。男性はそれがわかっている。「あなた方がよりよい状況にあればいいと思っている、心配している」というメッセージを送りながらも、一定の間合いを崩さない。これより踏み込んだ「心配」を示せば、少年に期待を抱かせかねない。だが助ける手段など、どこにもないのだ。
 男性は、少年が遠い親戚のところに身を寄せた、つまり「どこか別の支援につながった」と知り「よかった」と別れを告げる。

 私はここに、面談室的時空間の予兆を嗅ぎとる。男性の時間と空間は「任務」によって構造化されているので、彼は「元気でな」と別れを告げることができる。助けの手を離す理由を、彼自身の判断ではなく「任務」として外部化できる条件は、すでに整っている。
 戦後福祉は、予兆というかたちではあるが、すでにこの時点ではじまっていたのではないか。

触覚的歴史感覚

 戦後の児童福祉は、アセスメントや技法から遠く離れた、むき出しの時空間のなかではじまった(と思う)。だが、戦後福祉の面談室的時空間の予兆もまた、戦中からすでにあった(と思う)。むき出しの時空間と面談室的時空間とのあわいには、助けを必要としながらも何も言い出せず去っていき、そのままひっそり死んでいった、77年前の少年少女の残像が見いだせないか。仕事に際する私の個人的な「覚悟」は、ここにはじまる。

 また、敗戦前後に認められる(であろう)この2つの福祉的時空間のうち、むき出しの時空間に主たるルーツをもっていると考えると、私がこの時代の情景に親近感を抱いてしまう理由のひとつが説明できるように思う。法制度によってガッチリ構造化される手前の時空間である。だからオーソドックスなソーシャルワークの常識とは噛みあいづらい。そう考えると整合的な気がするのだ。

 支援者の誰もが、構造的に安定化された面談室的時空間のなかで、明瞭で明快なスキームに沿って支援するだけでは、歯が立たない現実もある。<かなりや>以外にも、現代版・むき出しの時空間にある現場も、たくさんあることだろう。主流的な言説から外れており、それについて語るための言説編成が整っていないため、可視化されづらいだけなのではないか。

 社会福祉史は、現場において、例えばこんな風に体感される。これが学術的な社会福祉史研究とどうつながるのかは、今の私にはわからない。だが歴史と現在との連続性と断絶性は、ディシプリンの外部からも感知できる。このような触覚的な歴史感覚を通し、現場とアカデミアのあいだの裂け目を縫い合わせられないだろうか。

(おしまい)