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宇都木峻の理想の最期

お世話になります。宇都木です!

今回は、死について。重い話にするつもりは全くないので、ふんわり読んでいただけたらと思います笑


4年前、デイサービスで働いていたのですが、そこの利用者さんたちはとても明るくて、楽しくリハビリに励んでいる方が多かった。


しかしたまに、

生きてても良いことあらへん

とか、

だんだん友達が先に逝ってしまって寂しい

という裏の顔も見てきました。
それを見ると、切なさを感じずにはいられませんでした。

一方で、

「私なんかもういつ死んでもいいねん〜」

と言っている人もいました。

本人達は本気でそう言っていたか分かりませんが、自分の人生に満足しているようで、見ていて気持ちが良かった。

僕には「いつ死んでもいい」状態が来るのか?
僕は何歳まで生きたいか?
死んだらどうなるんだろう?


「死」について考えるようになったのはこの頃からかもしれません。


例えば、踏切や線路で、電車が通り過ぎるのを間近で見るとき。

もしここで一歩踏み出そうもんなら、、。

「死」がものすごく近く感じる瞬間がある。


もし死んでも魂だけ残り、火の玉みたいにその後も現実世界の中を飛び回り、大切な人たちの生活を見守ることができるのなら、そんなに悪くないなと思ったり。

でもたぶんそんなことはできなくて、おそらく何にもない。永遠に真っ暗な部屋の中に、ポツンといるみたいな感覚なのかもしれません。



そんなことを考えてもどうしようもないのはわかっているんですが、死んだ後をコントロールできないんだったら、せめて、死に方は選びたい。



しかし、中田敦彦さんがこんなことを言っていました。

「人は、今日生きたようにしか死ねない」

確かに、事前にいつ死ぬかを教えてくれるのであれば、死はそんなに怖いことじゃない。

日常の延長線上に、死がある。
要するに、死は急にくる。

だから、死に方を選ぶなんてことは、まずできない。


昔から父親に、

「明日死んでもいいように今日を生きろ」

と口酸っぱく言われてきました。

頭ではわかっているけど、そんなの無理だよ、と思っていました。
でも今思い出すと、父が勉強をしていない日を、見たことがなかった。


キングコング西野も、

「いつ僕が死んでも、その後ちゃんとチームが回るように組織を動かしている」

と言っていました。


彼らは本気で、しかも物理的に「明日死んでもいいように今日を生きている」。


いつ死んでもいいように生きるのは大前提として、もし理想の最期を選べるとしたら、お世話になった人たちに囲まれながら、病室のベットで眠るように死ぬ。


そして、死ぬ寸前に笑いたい。

自分の人生に見切りをつけ、我ながら素晴らしい人生だったと、笑えたら勝ちなのかなと。


こう宣言しておけば、めちゃくちゃもがき苦しみ、暴れ騒ぎ、泣き叫んだのち死んだとしても、それがフリとなり面白くなるんじゃないでしょうか。


そうして息を引き取った僕の亡き骸に向かって指を差し、


「死ぬ寸前に笑うってゆうてましたやん」


と突っ込んでくれたら、大満足です。


もし明日死ぬとしたら、限られた発言を批判や悪口に使うでしょうか?
そんな人生だったら、僕は最期に笑えない。


人は産まれたその日から、死へ向かっている。
そのことをまず自覚した上で、死との距離感を能動的に近づける努力が、1日を、そして人生を少しでも濃く、良くするのかも知れません。

よかったら、このnoteを読んでくれた皆さんの、理想の最期を僕に教えてください。

どう死にたいか。それは、どう生きるかであり、人生なのです。

読んでいただきありがとうございました!


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