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リンゴジャーニー Vol. 4〜寄り道がメインになることもあるけれど

2023年11月3日〜もとに戻そうか

なんとも充足感。本当に旅をしている気分になってきた。Vol.3では、お友達からいただいた情報の数々を紹介させていただいた。今までの経験上、寄り道こそが旅の醍醐味だと思うし、そういう時間こそが潤いだと思うから、「寄り道」と題したわけだが、当時の時代背景やレーベル状況がわかる内容、リンゴ追分またはRingo Oiwakeがリリース直後も少し経った後にもカヴァーされていることが分かる、貴重な情報だった。

さて今回は、前々回に浮かんだ課題「日本からハワイへの経路」について書いていこう。

仮説

・楽譜?
・ラジオ?
・レコード?
・レコードが海を渡るということは人の動き?

再びラジオについて検索
 検索ワード:ラジオ 1950年台 日本から ハワイ
 検索結果:NHK World Radio Japan

ありましたよ!日本放送協会(NHK)による海外向けサービス「NHKワールドJAPAN」のラジオ国際放送チャンネルだそうです。

1935年(昭和10年)のJOAK(東京中央放送局)開局10周年の事業の一環として、日系人が多く住むアメリカ大陸向けの放送を実施することを決定。同年6月1日10時30分 - 11時30分(日本時間)、名崎送信所より20キロワット送信機1台、周波数14600キロサイクル(キロヘルツと同じ)で、日本語と英語による1時間のラジオ番組が、北アメリカ西部・ハワイ州向けに短波で送信[2]され、日本の国際放送(当時は海外放送と呼んだ)の幕開けとなった。
〜中略〜
社団法人日本放送協会の海外向け放送は、終戦直後の1945年(昭和20年)9月2日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令によって9月4日中止された。1950年(昭和25年)、放送法が施行されると、社団法人日本放送協会は解散し、業務を継承した特殊法人の日本放送協会(NHK)が発足する。この後の1952年(昭和27年)2月、「ラジオ日本(ラジオニッポン、Radio Japan)」として海外向け放送を再開する。

Wikipepia

「1935年から」そして「ハワイ州向け」の文字が!
となると、リンゴ追分が放送されたのでしょうか?

NHKアーカイブスより
報道・ドキュメンタリー「海外放送はじまる」

音楽も放送されていました!前述のWikipediaによると「国内向けの演芸・歌謡番組を録音再生放送していた」とあります。NHKで放送されたリンゴ追分の映像を見つけることはできませんでしたが、美空ひばりさんのNHK出演記録が美空ひばりさんの公式ウェブサイトに残っていました。
 ・1946年12月:のど自慢素人音楽祭
 ・1951年2月:笠置シヅ子とNHKで共演
 ・1954年06月25日:NHKラジオ「黄金の椅子」に最年少で迎えられる
などなど。
これ!という証拠は掴めなかったが、超話題作だったリンゴ追分が放送されなかったとは考えにくい。

また、NHK World Radio Japan以外にも、日本人向け日本語ラジオがあり「演歌の時間」「日本便り」といった番組もあったそうだ。

KZOO(ケイズー)
アメリカ合衆国ハワイ州内で日本人・日系人向けに24時間放送している日本語AMラジオ局である。ハワイ州内4島(カウアイ島、オアフ島、マウイ島、ハワイ島)で聴取可能。
放送内容
音楽番組やニュース、フライト・インフォメーション、経済ニュース、移民法プログラム、ラジオ体操がある。 また「宗教の時間」「演歌の時間」「日本便り」という番組もあり

Wikipedia

うーん、ほんとに、これ!という記録は掴めなかったのは残念。NHKに問い合わせたらきっと残っているんだろうけど、気が乗らず行動していない。

ここまでをまとめると、日本からハワイへラジオを経由してリンゴ追分が伝わった可能性は十分ありそう。チャンネルとしてはNHK World Radio Japanは有力候補で、内容は日本国内で放送された音楽番組の録音の再放送だった、という経路が有力なのではないか。

ここで、じゃあレコードは?という疑問になると思う。
レコードが渡るということは必ず人の手が介在する。飛行機?船?を調べてみた。

まず海路
記録に残っている中で初の日本人ハワイ上陸は漂流者で、なんと帰国後の取り調べ結果を文章と絵で詳細に残した「番談」と云う書物が残っているんだそうです。

安芸国の稲若丸は大坂から伊勢に向かう途中の1月、暴風雨に遭い漂流、幸いにも3月になって米国の捕鯨船に助けられ、乗組んでいた8名全員が1806年4月にオアフ島に上陸して、カメハメハ大王に謁見をしました。しかし鎖国をしている母国に直接帰ることは叶わず、翌年2名が長崎に上陸して、生き残った平原善松のみが取調べに対してハワイについて口述しています。そして、1832年12月には、越後早川村の難破船がオアフ島南西端のバーバーズポイントに漂着し、4名が救助されました。

ALOHA PROGRAM

以上は鎖国時代の話で、昭和時代はどうだったのだろうか。

1885年(明治18年)に明治政府が正式に認めた「官約移民」が開始され、同年2月には汽船シティー オブ トウキョウ号で945名ほどが到着し、1893年にハワイ王国が終わりを告げるまでに、政府間で約2万9千人余りの日本人移民が移住しました。

ALOHA PROGRAM

まだ明治だ。
1950年の美空ひばりさんハワイ巡業の交通手段を調べたが公開されていないし、多く公開されている巡業時の写真の中にも船と一緒に映る写真はなかった。ここで浮上したのが、美空ひばりさんが子役で出演した新東宝の映画「憧れのハワイ航路」である。船の航路でさえ「憧れ」の対象だったことがわかる。(1951年4月1日劇場公開)

そうなると人々がそう簡単に日本とハワイ間を行き来するのは簡単ではなく、日本のレコードがハワイへ人の手によって渡ることは難しかったように思う。さらに、このような情報も見つけた。

提供館:岐阜県図書館
質問:昭和23年に発売された「憧れのハワイ航路」という曲があるが、その当時、日本からハワイへの航路は実在したのか。もし実在したのなら費用と所要時間を知りたい。
回答:
以下のような参考情報はあったが、正確なところはわからなかった。
・当時、日本の客船ではハワイ航路はなかったが、アメリカの会社が昭和22年以降、東洋航路と世界一周航路でサンフランシスコと横浜をハワイ経由で結んでいた。
・当時、パンアメリカン航空が世界一周線で東京-ホノルル間で飛んでいた。
・費用は不明(参考:サンフランシスコ-東京/横浜間は、以下を参照)
・所要時間は不明(参考:昭和31年のものは、以下を参照)。
・ブラジルへの移民船がハワイを経由していたが、戦後は昭和27年以降のこと。

・榊原胖夫『航空輸送の経済』(晃洋書房,1999 9書庫:687/サ)
… p.1-3「1憧れのハワイ航路」
この歌が流行した頃について、「この時期の日本にはハワイにむかう外国航路の船はほとんど残っていなかった、戦争中、病院船として使われていた日本郵船の「氷川丸」という船が残っているぐらいだった。「憧れのハワイ航路」を走る船があったとしても、日本の船でなかったことは確実である(中略)めざましい航空機の発達があり、ついにハワイ航路に就航しうる客船が建造されることはなかった」との記述がある。

レファレンス協同データベース

昭和22年とは1947年。ふむふむ、日本の会社によるハワイへの客船は存在しなかった可能性が極めて高い。では飛行機はどうだったのか、念の為調べてみよう。

次に航空路
日本で一番古い航空会社であるJALが、1954年2月2日に東京ホノルル間を就航したのが日本とハワイを結ぶ定期便の歴史の始まりだそうだ。

JAL国際線初便航路をたどる70周年記念チャーターフライトより

リンゴ追分リリースの2年後からの就航なので、よほどのお金持ちの人がレコードを持参してハワイへ降り立った可能性はあるのかな。そして、そのレコードをハワイのミュージシャンが聴くことになった、なんて想像にすぎないが、現代の人が自分の気に入りの音楽をいつでも聴けるよう持ち歩くサブスクのように当時の人たちはレコードを持ち歩いたりしていたのだろうか。今でこそスマホ1つで事足りるが、筆者が高校生の頃にはディスクマンを音飛びしないように手のひらに水平に乗せて聞きながらの通学、その少し前にはファッションにまでなったという肩に担いで移動中も音楽を楽しむことができた大きなラジカセ(これはやったことない)。そんな感覚で大衆音楽愛好家がレコードを持ち歩いていた、だなんて現代のDJのようでかっこいいじゃないか!

さて、Vol.4をまとめると、日本からハワイへの経路としては、レコードと比べてラジオによる拡散が実現可能性が高く有力と言っていいのではないだろうか。読んでくださった皆さんはどう思ったでしょうか。

次回は、早くも目的地に到達予定!

余談ですが、以前「ラジオ」をキーワードに所有しているCDでプレイリストを作っていたことがある。いつぞや間違って消してしまったのだが…。覚えているタイトルはこんな感じ。


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