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トリガー渓谷っていう山の話ではなくて

演劇公演において、どの程度カンパニー側がトリガー警告を発するべきか、ということについて悩んでいる。当分の間この問題と付き合っていくことになるんだろう。簡単な答えが出せるとは思っていないが、公演の度に、その都度「結論」が求められる話題でもあるのが悩ましいところだ。

ちょっと思い返してみよう。思うに「この作品には暴力についての描写があります」などという「警告」は僕が若い頃には見られなかったものだ。そして、そんな警告は無いのが当たり前だった。始めてゴキブリコンビナートという劇団を観た時には、あまりの暴れっぷりに「思ってたんとちゃう!」となったが、自分としてはいい意味での裏切りで、その作品の衝撃度を自分はすごくポジティヴに受け入れ、楽しんでいた。

僕が観に行った演目では裸体の男たちが泥まみれ(設定では汚物)になりながらミュージカル曲を絶唱しつつ、マジモンのチェーンソーの電源を入れて振り回し、実際に舞台装置を破壊するシーン、などがあった。その作品には観客席というものがなく、いわゆるオールスタンディングの形式での会場づくりだった。しかも、観客は上演中にただ立っていることさえ許されず、絶えず移動を強制されるシステムなのだ。なぜかと言えば舞台上に設置されたイントレ(人や機材が乗った車輪のついた金属の塊)が縦横無尽に劇場を動き回り、「轢かれたくなかったら逃げるしか無い」という状況が全編にわたって続くからだ。激しい舞台なのだが全編コメディタッチで明るく描かれており、それがまた恐ろしかった。

「無茶苦茶しよるなー」と、当時の自分は思っていたが、聞けば、その演目はかの劇団にとっては比較的大人しいものであったらしい。確かに、伝説に聞く様々な「演出」はそれどころではないものが沢山あった。興味のある方はあれこれ調べていただければと思うが、率直に言ってヤバいこと沢山している団体だと思っていた。だが、それは必ずしもマイナスの評価には繋がらなかった。僕はヤバいものこそが当時見たいと思っていたので、過激な作品を観られて本当に面白いと思っていた。むしろ当時は「全然ヤバくない」作品だけは見たくないと思っていたと言っていい。90年代後半から00年代初頭は、そういう空気が残っている時代だった。

当然ながら、そんな時代はもう過去のものになった。現代では様々なトリガー警告が演劇作品に限らず、事前に大量に付与されるようになっている。舞台上での喫煙シーンというのは、その流れは加速している。確かにトリガー警告によって不快であったり、危険であったりする表現から身を守ることができるのはいいことだろう。特に演劇は途中退場しづらいから尚更効果は大きい。

僕が若い頃よりもずっと表現によって「傷つきたくない」という思いが増しているのだろうし、それよりもっと強く「誰も傷つけたくない」という思いが増しているのだろう。それは確かにある種の「洗練」に違いない。より細やかな配慮がなされる、より優しい世界になったな。と、思う。

問題は、この配慮のインフレをどこで、何を根拠に止めるのか? ではないだろうか。思うに「絶対に誰も傷つけたくない」という配慮が行き着く果ては「作品など発表しない」ということではないか。いかなる作品も潜在的には誰かを傷つける恐れがあるならば、作品を発表しないことよりも安全なことはない。

もちろん「作品を発表しない」というのは極論だ。だけど「わざわざ暴力を扱う作品を発表する意味って何?」「人を傷つけてまで表現する価値ってなに?」という問いに対して、こちらが用意できる言葉が「なるべく人を傷つけたくないんです」では歯が立たない。

これは流行り病以降の活動で痛烈に意識したことだが「最高の安全対策は演劇活動の中止である」ということ。これは間違いない。感染症対策としては人は集まらない方がいいに決まっているし、そもそも人と人は、出会わない方が安全だ。創作現場において、それは単純な事実だった。「安全」が一番大切な価値なら、演劇は全部、やらない方がいい。

そのような論理によって演劇活動の幅はどこまでも狭めていけるし、表現内容もどんどん「人を傷つけない」形を強制される可能性がある。それで本当に問題が解決するのか? 僕には疑問だ。そもそも何によって人が傷つくかなど、一般化できるものではない。

善意に満ち溢れたハッピーエンドのコメディで、身悶えするほど苦痛を感じる観客だっているはずだ。そして、トリガー警告による「ネタバレ」に対してものすごく大きな苦痛を感じる観客がいた場合、トリガー警告自体が人を傷つけていることにはならないのか? 誰も傷つけない、は、単純に不可能だ。

もちろんトリガー警告には有益なものもあるだろう。少し話は逸れるが、観客を有害な作品から守るという意味においては、たとえばR18指定などのゾーニングなどが非常に有益な効果を生んでいるとも思う。僕だって無秩序な時代に戻そう、というつもりは無いし、そんなことが可能だとも思っていない。ただ、「安全のためにすべての公演を潰しましょう」より手前では、引き返す必要があるんじゃないか、ということだ。

僕は、たとえ誰かを傷つけることになったとしても発表したい作品があるなら発表すればいいと思うし、受け取る側も、劇場では常に無傷ではいられない、と覚悟をしておくべきだと思う。それは演劇に限らず、読書であれ、音楽であれ、リスクがあるという意味では同じはずだ。

リスクが極大化していくことを放置すべきとは思わない。ただ、リスクがゼロにできるなどと夢想すべきではないだろう。誰かにとって感動的だったシーンが、誰かを強く傷つけることもある。公演においては、傷つける覚悟も、傷つく覚悟も必要だ。…そうはいっても、自分の基準に自信が持てない昨今ではあるのだが。

なんだかトンチみたいな話だが「この作品では、内容についてのトリガー警告をいたしません」という種類のトリガー警告を出す、ということもひとつの解決策なのかもしれない。うーん。そんなんじゃあ、「安全性が確保されていない」として敬遠されるのかなあ…。

芸術は根本的には人を傷つけるものだ。以前、すばらしい舞台を観に行った際に、終演後に立ち上がれないほど泣いている観客の姿を目にしたことがあるが、あの人は「傷ついたけど楽しんだ」のではなく、「傷つけられたことを楽しんだ」に違いない。傷つくことと、感動することは分けられない。

芸術はきっと温泉みたいなものじゃなくて筋トレみたいな側面があるんじゃないか。単に傷が癒やされるんじゃなくて、むしろ筋繊維を損傷することによって超回復を促す、みたいな。傷つくことがむしろ目的、みたいな側面があるんじゃないか。温泉みたいな演劇があったってもちろんいいとは思うんだが。

関連してもう一点。自分がトリガー警告に対して完全にポジティヴになれない理由として、トリガー警告そのものが持つ「過度の一般化」という問題点がある。トリガー警告には「一般化」という野蛮さ、暴力性が潜んでいると僕は感じる。どういうことか。

たとえば「性暴力」について扱った三時間の長編作品を発表するとしよう。創作に携わった人達が、三時間かけなければ語り得ないような、その作品に個別の事件/事象について一生懸命に表現をしたとしよう。その表現を指して「この作品には性暴力についての描写があります」と一般化してしまうこと、その語られ方で表現をする側が苦しい思いを抱くことは無いのか? フラッシュバックで苦しむ方々にとってこの種のトリガー警告は最も重要なものだろう。必然性があると僕も感じる。しかし、その警告によって物語の固有性が剥ぎ取られ、一般化されてしまうことに潜む暴力もまた、存在するはずだ。

一般化し得ない事件について、一般化し得ない感情について、一般化し得ない感覚についてこそ、創作者は作品として結晶化したいと願っているはずだ。それを一般化されたトリガー警告にまとめてしまう暴力性にも、私たちは自覚的で無ければならないはずだ。

さらに言えば、その一般化の暴力を私たちは本当にコントロールできるのか、ということに注意を払っておく必要があるということ。今はトリガー警告をある程度表現者の裁量によって出したり、出さなかったりしているが、R18 指定のように、「しなければならない」安全基準としてそれが採択され、それを取り締まるのが表現者本人ではなく、何らかの公的機関になったとしたら、どうだろうか?

やはりトリガー警告というのもひとつの「規制」なのだという単純な事実を忘れるべきではないんだろう。自主規制がどこかの段階で検閲のようなものにステップアップしてしまう危険は常にある。「規制が多ければ多いほど表現は自由になる」なんてことは、起きるはずもないのだ。







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