見出し画像

【重要】言葉を空間に配置してみせる

先日の記事でnoteに初めて投稿してみた。実はアカウントだけは持っていたので初投稿もしていないのにアカウント歴だけは五周年だったのだけれど、こういうものは継続せなアカンよね。ということで、これからはたまに過去の自分のtwitterを漁って、読みにくいと評判だった演技についての連投ツイートをまとめていってみようと思う。適宜編集、再考を交えつつ、ね。というわけで初回は「言葉を空間に配置してみせる」ことの大切さについて。後半はやや言葉足らずで難解ですが、序盤だけでもぜひ。結構、レアな内容の割に重要なことだと思っているのです。


何を言っているか「わかる」俳優と、そうでない俳優。


長年の疑問だったんだけど、ある俳優がしゃべると急に「ん? なにいってんだ?」と、なってしまう時がある。滑舌や発声の問題ではない。すごくハキハキとボリュームのある声量でしゃべっていても、全然意味のわからない俳優というのが、いる。その反対に、ぼそぼそ聞こえづらい滑舌、声量でしゃべっていても言葉の意味がはっきり伝わる俳優がいる。この違いはなんなんだろう? どうしてある俳優の言葉からはとてもよく意味が伝わってきて、また別の俳優がしゃべると、途端に話が見えなくなってしまうのか? この現象はいったいどういったことを原因にして起きているんだろう。

もちろん、その問いへの答えはいろんな水準で出せるものだ。解釈の問題、台詞の対象の問題、様々なことがある。だけど、近頃注目していたのは、言葉をいかに空間に配置してみせるか、という問題。これこそが意味が伝わる伝わらないに直結する大問題だと感じている。

そもそもの話をしておこう。僕は、俳優の様々な仕事のうちの一つは「今・ここ」ではない場所で書かれた言葉(台詞)を「今・ここ」と関わらせることではないか、とかつて書いた。チェーホフは「今・ここ」にはいない。だけど俳優がその仕事をすれば、観客の「今・ここ」に上演を届けることができる。もちろん、シェイクスピア劇だろうが、ギリシア劇だろうが、現代劇だろうが同じことだ。

単にチェーホフの台詞を発声すれば、それで「今・ここ」と関わらせたことになるだろうか? きっと十分じゃない。ここで僕が言っている「関わらせる」という仕事は抽象的なことじゃない。とても具体的な仕事だ。たとえば「ニーナ、待って」という台詞を発する時、文中のニーナにでなく、ちゃんと「今・ここ」にいる俳優に向けてそれが言えているか? 相手役、台詞の対象を見つけることも、言葉を空間に配置してみせる、ことのひとつだ。これは、実際にやってみるとそれほど簡単なことではない。なにせ目の前にいる俳優は全然、「ニーナ」じゃない。場合によってはニーナ役がおっさんかもしれないし、老婆かもしれないし、人形かもしれない。

「ニーナ」という言葉を、台詞を、名前を、「今・ここ」にいる女優さんの身体にあてがう。つまり、配置する。演技をする際には、このような操作が人物に対してだけではなくて、様々な単語、名詞、概念についても行われるべきなんじゃないか。たとえばこんな台詞があったとしよう。


こないだあの、佐藤さんと会ったんですけど、飲みの席で。なんか、――心配してましたよ。

例文


こういう台詞を発する時に考えてみて欲しい。「こないだ」はどれくらい前なのか、「佐藤さん」と自分とは人間関係的にどれぐらいの距離なのか? また、話し相手との距離は? さらに、飲みの席とは、どのぐらいのサイズでどういう場所だったのか? 心配していたとはどの程度の深さの心配だったのか? それらすべてを具体的に想像して、空間に配置してみるといい。細かい作業だと思うかもしれないし、実際にその作業を真面目にやれば、ほんの一言の台詞を言うのにも随分時間が掛かってしまうだろう。だが、そういう台詞を日常生活で言う際には、それらすべてを私たちは詳しく知っているはずだ。

複雑な関係や、抽象的な概念を伝えたい時にも「言葉を空間に配置する」ことがとても有効だ。たとえばこんな台詞。


俺の叔父さんが三回離婚してるんですけど、その二人目の奥さんとの子供ってのが、まあ、すげえヤンキーなんすけどね、そいつとこないだ旅行いったんすよ。

例文


という台詞があったとしよう。さらさらっと音に出しただけでは、こういう台詞は伝わらないはずだ。「三回離婚、その二人目の奥さん」とか、このあたりは何らかのジェスチャーなどをして、言葉を空間に配置し、言葉を空間に配置しながら説明しないと、何が何だか、簡単にわからなくなってしまうはずだ。


「配置」するとは、どういうことか。


そもそも人は、演劇に限らず、「今・ここ」にはない情報を「今・ここ」にいる相手に向かって伝える際に、この「配置」という操作をしながらコミュニケーションを取っている。「私のひいおじいちゃんの親友」という言葉を発する時、なんとなく上の方を指したりするだろう。もちろん、ひいおじいちゃんは物理的に頭上、高い位置、にいるわけじゃないのに、だ。

この「配置」という発想の説明がとても難しいのは、これがすごく多様な言語活動を含むからだ。とりあえず、単純な意味として「この学校」「あの自転車」などという時に、それが舞台空間において、自分との距離感において、ちゃんとどこにあるか、いるか、を把握してみてほしい。身体を使って、実際に動いて表現してみるといい。そのことで、ひとつひとつの台詞の実感、リアリティ、具体性がとても高まるはずだ。

たとえば「あいつには負けないぞ」という「あいつ」を、舞台空間のどこかに配置することでグッと台詞に具体性が増す。「あの人、大阪出身だよ」という台詞を言う時に、発話する本人と大阪との距離がどのぐらいあるのか、その配置の感覚が台詞にリアリティをもたらしてくれるはずだ。

逆に言えば、台詞に含まれている膨大な名詞たちに対して、全然配置がうまくいかず、距離感が把握できていない場合に冒頭に紹介したような、「とても発音はいいけどまったく意味がわからない演技」、言うなれば「言語明瞭・意味不明」な演技が生まれてしまう。

また、この「配置」という発想は、実際には空間的な位置を持たないものに対しても適応できる。たとえば「二千年前」という単語が示しているのは、時間的な隔たりであって空間とは本来関係がない。でも、そう表現することができる。自分のずっとずっと後方を指す、などして「二千年前」を表現する俳優がいても、そんなに違和感なくその仕草は受け入れられるのではないだろうか。私達は、概念を配置できるのだ。配置することで、形の無いものに形を与えることができる。

たとえば「やさしさ」のポーズを取って、と言われたら、「なんやねん」と思いつつも、まあ、やってやれないことはないだろう。次に「かなしみ」のポーズ、「いかり」のポーズ、「しっと」のポーズ、と言われても、まあ、なんとかなるはずだ。それを「概念を身体に配置した」と言えなくもない。


長いことずっと、そういう、お母ちゃんに対しての、ずっとこう、もやもやした、なんか、そういうのをずっと抱えてたんだよ


みたいな台詞。うん。ありうるね、こういう台詞。こういった台詞は言語の意味としては非常に小さい。言語だけを見れば、何かを記述しているようで、大したことは記述できていない。しかし、この台詞に実感を込めて言うことはできるはずだ。むしろその時、言葉でしっかりと言ってしまうよりも多くの情報が演技に込められるのかもれない。

そういった情感、質感、肌感覚、実感、みたいなものをいかに身体に配置して言えるか。どこに配置して言うか。その辺は俳優の自由だろうから、楽しんで配置しみたらいい。どうも世の中には配置のうまい俳優とそうでない俳優がいるようで、これは身体、空間、言語、それぞれの感覚の鋭さが影響する能力なのだろうが、しかし、それはいわゆる「センス」で決定しているものなのか、というと、そうでもないように思う。要するに、訓練して伸ばすことのできる能力なんじゃないか、と僕は思っている。訓練? どんな訓練をして配置のセンスが磨かれるというのだろう?

それを、先日「演技のためのジム」で少しだけやってみた。それは「ト書きを空間に配置する」という稽古。古典作品などにはよく、幕の冒頭などに長めのト書きがあるが、あれを演じてみてもらったのだ。


舞台はセールスマンの家。それを四方から取り囲むように、背後に角ばった形状のものがそびえているのが見える。…それを四方から取り囲むように、背後に角ばった形状のものがそびえているのが見える。

アーサー・ミラー『セールスマンの死』


なんてね。それを舞台上で声に出して、今・ここ、に配置してみるお稽古。2020年の後半に考えていた事は、何と言ってもこの「配置」ということ。山脇辰哉さん的に言えば、「言葉の前のめり性」ということ。そうそう、忘れてはならないが、元々この「配置」というアイディアは山脇辰哉さんの考えていたことを広田が聞いて、広田なりに言語化したことなのだ。僕の言っていることが必ずしも彼の言わんとしていたことを伝えきれているかどうか自信はないが、少なくとも僕の「配置」というアイディアの原点には彼の発想があり、「前のめり感」「前のめり性」の概念なくして「配置」という発想は無かった。


「配置」と日本語。


台詞を、言語を、いかにして「いま、ここ」と関わらせるか。一旦それを意識して俳優たちの演技を観はじめると、いかに言葉がちゃんと配置されていないか、気になって仕方がない時期があった。それじゃ、伝わるわけがない、という雑な配置をしている演技がとても目についたのだ。

しかし、配置という操作をとても難しいと感じる俳優も多い。なぜだろう。これは日本語の成り立ちとも深く関わっている問題なんだと思う。日本語では主語や二人称が省略されることが多く、したがって、あなたが、彼が、という配置をそもそもしないで日常のコミュニケーションを取っている人が多い。――のではないか? 僕はそんな風に考えている。

内輪の関係性ならば「配置」なんぞしっかりしていなくても通じることも多い。ただ、自分とあまり情報を共有していない人、あるいは、とても多くの人を相手にして話すためには、ある程度明確な「配置」が必要になるはずだ。「○○って、△△じゃないですかあ?」的な同調と共感を前提とするコミュニケーションも大切だが、それは仲間内でしか通じない。逆に言えば、そういった内輪ノリが通じない相手との意志疎通を重ねる事でしか「配置」の能力は身につかないような気がする。

「配置」は抽象的な操作ではない。例えば、極めて複雑な家庭の事情や、家族の関係性などは、その情報を共有する内部に留まっている限り明確な言語化無しで、感覚を共有できる。だが、それを外部に説明する際には、明確な配置と、理解させようという意志が必要になる。そういうことだ。

近頃観た舞台で、俳優が観客に向かって話す台詞が、全然、自分に向けられていると感じられない事があった。これなどは、台詞の対象が見つかっていない、あるいは、焦点が合っていない、ということ。つまり、省略された二人称、あなた、が配置出来ていないということを意味している。

観客に向けて台詞を発するには、観客席の方向へ視線を向けるだけでは足りない。たしかに客席の間に視線を漂わせれば、「観客に話し掛けている風」にはなるが、そんなものは「風」に過ぎない。では、どうすれば良いのか? 観客に話しかけるには、自分が、観客から影響を受ける状態になることだ。相互性の中に身を置くことだ。ただ、それをしない/できない俳優が本当に多い。

若干話は逸れてしまうが、そのためにはまた、――これは作家にも言えることだけど、自己愛を健全に育てることでしか表現は前進しないな、ということを痛感する。なぜ、相互性の中に身を置くことが難しいのか? ものすごく端折っていえば、それは自信がないからだ。自信を身につけるためには、健全な自己愛を育てるしかない。何が健全な自己愛かを明治することは難しいが、不健全なものならばわかる。それが自己嫌悪だ。健全な自己愛を育むためには、自己嫌悪もまた自己愛のバリエーションなのだということを自覚しなければいけないだろう。自己嫌悪を他者に提示することは、憐憫という形式で愛情を求めることに他ならないのだから。


「配置」はどこで実現されるか?


ところで「配置」は、どこで実現されるのだろう? 僕は人と人の間で、関係性の中で、だと思う。俳優がある単語を発するときに、明確なイメージ、位置を捉えてそれを発話すれば、その俳優の中での配置はある程度、達成されていると言えるだろうが、しかし、それを受け取る者の存在無くして配置は完了しない。

というのも、ウィトゲンシュタイン先生じゃないけれど、言語の意味が伝わるということは、同じ言語ゲームを生きる事によってしか達成されないからだ。配置とは、ある意味では、言葉の意味を伝達する事そのものだから、それが達成される場所は個人の内部ではなく、人と人の間であるはずだ。

そう考えてみると、言葉の意味が伝わると言うことは、空間を共有するという事なのかもしれない。それは、現実にある部屋にいて物理的な空間を共有しているという事ではなく、ある概念や人物が配置されたイメージ上の空間を共有するという事だ。

ややこしい言い方になってしまったが、これもまた具体的な事だ。例えば、舞台上に三人の人が居て、その内のひとりが急に興奮して立ち去ったとしよう。残りの二人の内ひとりがもう一方に向けて、「(舞台外を指し)どうかしたん?」と問い、「さあ?」と答える時、配置によって意味が伝達されている。

確かに言葉を「今、ここ」に配置するとは、空間と自分の言葉との付き合いでもある。でも、基本はやはり言葉とは常に誰かのための言葉であるはずだ。だからこそ、言葉を配置するとは「配置してみせる」という感覚が基本形になるのではないか。

言葉を伝えるに先立って、物理的な、もしくは想像上の空間を相手と共有しているという事実、あるいはその場所が必要とされる。その、共有していると感じられる場所の中で、お互いに言葉を、すなわち意味を、配置してみせあうこと。それが言語的な意志疎通、ってものじゃないかしら。

普段の生活におけるコミュニケーションでは、そういった行為がすごく自覚的に行われるだろう。とりわけ、共有情報の少ない状況、たとえば母語を共有しないもの同士でのコミュニケーションなどの場合には、想像上の空間の共有ということは、かなり自覚的に、丁寧に行われるはずだ。

だが、困ったことに台詞となると、言葉が紙の上に乗っかっているので、それらの行為がキレイに忘れられたりする。紙の上の言葉を、空間に配置して、相手に見せる。空間に配置して、相手に見せる。そういった復元作業をその都度やらなければ、実際のコミュニケーションのようには演じられないはずだ。

後半はやや内容がマニアックになってしまったが、でも、とてもとても重要な事を書いたように思う。しかも、あんまりどの演技の本にも書いていないこと、だったはず。


また別の日のツイートより。続「配置」について。


引き続き「配置」の問題について。演技における「配置」に関しては、大まかにいって2つの段階がある。自分が単語の意味を理解し、空間に配置する個人的段階。そして、それを共有しようとして他者に働きかける段階、だ。境界線の曖昧な2つの段階ではあるが、共有の有無はひとつの指標になるだろう。

個人的段階とはたとえば、自分が明日こなさなければならない7つの仕事を漏れの無いようにぶつぶつと確認している、といった状況だ。共有を含む場合とはたとえば、話し相手に向かって、あなたが明日やらければいけないことはここでこうやって、と逐一理解させながら確認をしていくようなもの。

先日のジムで、『夏と煙』に取り組んでいる際に、「このグローリアス・ヒルのは街は…」という台詞があった。その単純な、いわばひとつの単語を発する時にも、街のサイズをどれらいの大きさとしてイメージしているか? 人口はどれぐらいで、いくつの大通りがあるのか? どのぐらいの規模感で街をイメージしているか? というということが必要になってくる。

ここからは僕の印象だが、こういったイメージを共有しようとする意思を持っていることがとても大切で、共有への働きかけの強さが、ほとんどそのまま訴える力というか、コミュニケーションの迫力みたいなものに繋がっていく、ような気がする。

俳優は、伝えようとする意思を持ってほしい。強く。それは、言い換えれば、伝わったことに対して疑念を持ってほしい、ということ。例えば、幼児にはじめてのおつかいを頼む時、自分が正確に行き先を伝えた、ということと、それがちゃんと伝わったかどうかは別問題だ。その時、私たちは伝わったかたかどうかにちゃんと疑いを持つ。大人同士の間でも、小さいレベルでそういったことがいつも、その都度起きているはずだ。

だが、台詞というものは、当然、相手役の台詞も含めて書いてあるものだ。確認しなくても、双方が相手の発する言葉の内容を、あらかじめ知っている、という特殊な状況が、演技においては発生する。言うなれば俳優はいつも、「『これから自分の発する言葉を、すでに相手役が知っている』ということを知っている」。それでも、ちゃんと伝えようとすることが大切だ。まるで子供に初めてのおつかいを頼む時のように、今、ここで伝わったかどうかに疑念を持つこと。今、ここで伝え直さなければ劇場に価値はないのだから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?