リチャード・エバンス著 木畑洋一他訳『歴史の中の人生』(上・下)岩波書店

 本書は、偉大な歴史家エリック・ホブズボームの評伝である。私はホブズボームが若き日から1991年の同党の消滅まで、一貫してイギリス共産党員であったことを不思議に感じていた。たしかにホブズボームの歴史解釈においては、経済的なものの力が重要視されている。しかし、「伝統の創造」という考え方や、義賊についての研究等、文化の力を重視する点で、教条的なマルクス主義からは遠いところにいる人だという印象を抱いていた。

 ホブズボームは、すでに高校時代に共産主義にシンパシーを寄せていた。ホブズボームは貧しい家庭で育ち、それを恥じて生きてきた。貧しさを恥じなくてもよい社会をもたらすという理由で、彼は共産主義に共鳴した。自分の容姿にコンプレックスを抱いていた彼は、それを挽回するためにモーレツに勉強をしたのだという。偉大な歴史家も、普通の若者だった。なんとも親近感を覚えるエピソードではないか。

 共産党員であることは、彼のキャリアにとって不利に働いた。偉大な業績がありながら、母校ケンブリッジの教授になることはできなかった。ロンドン大学の夜学と、ニュースクールというニューヨークの夜学の大学の教授として、そのキャリアを終えている。ソ連にもそれに追随するイギリス共産党にも、彼は批判的な態度を貫いていた。リアリストの彼は、共産党ではなく労働党のブレーンとして活躍していた。忠実な党員というわけではなかったようだ。

 ではなぜ、彼は共産党員であり続けたのか。離党した人間が共産党を悪しざまにいう姿を、彼はたくさんみてきた。自分はああはなりたくないと思ったからだと、ホブズボームは言う。偉大な歴史家の人生のバックボーンであったのは、美意識と意地であったのだと思う。英国首相ボリス・ジョンソンはホブズボームを崇拝していて、車椅子に載った最晩年のホブズボームと対面した時、直立不動の姿勢で応対していたという逸話も微笑ましい。

 




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