美術業界における【専門家】の方へ
はじめに
この記事に興味を持っていただきありがとうございます。
この内容がこれからの業界の在り方の改善のヒントや、一般鑑賞者と専門家と呼ばれる方々との距離を縮める一助になれば幸いです。
まず今回の一連の出来事に対して、いろいろ述べる前に、いくつかの内容を整理しておきます。
プチロングな文章で、まとまりがなく大変恐縮です。
ロジカルに無理やり考えることもないかもし
れませんが、このように整理することが今重要なので
す。ぜひ最後までお読みいただきますと幸いです。
「えらそうにいつまでも展示のことを話題にして
んじゃねぇよ。」なんて声も聞こえてきそうですが、
たまたま少し時間ができてしまったので
めんどうだと思いながらも書いてみたのです。
【整理1:今回対象になっている展示】
「アニッシュ・カプーア_奪われた自由への眼差し_監視社会の未来」
東京GYRE GALLERY
会期:2023.11.24〜2023.1.28
【整理2:今回の件の発端となった投稿】
【整理3:キュレーターとはどんな役割の人なのか】
ここでは以下のように捉えて話を進めたいと思います。(この他にもありますが…)
キュレーター
主に展示を企画したり、作品/作家/場所などとのやりとりを行い、構成を考案指示する人。
企画のテーマ(作家や作品の世界観、哲学や社会現象への応答など)はその時々で違うが、展示する空間と作品を調達し、
その展示で表したい内容、その作品をどう見て欲しいかに補助線を引いたり、鑑賞の視点を与える役割の人。
学芸員資格などの国家資格がある人も
特別な資格を持っていない人もいる。
【整理4:本記事での専門家について】
ここで述べる【専門家】にあたる方々は、主にキュレーターや美術評論活動、展示や鑑賞面、芸術学について携わっている方のように見受けられます。
他にも、アーティストを専門家とすることもできますが、今回は上記のような方々に焦点を絞って述べたいと思います。
【一連のやり取りの流れ】
1.
世界的に活躍するインド出身のアーティスト、アニッシュカプーアの展覧会。
立体、平面ともにドローイング要素のある作品を展示する構成でした。
ここでいうドローイングとは…
作家が自分の世界観や今感じていること、これから表してみたいと考えていることを、比較的短時間で制作する、本作品の下書き、実験、縮小版、リハーサルのようなもの。
つまり平たく述べると
「実はこの作家、本来はこういう世界観があるんですが、その世界の片鱗を、この都市空間を通じてアクセスしてみてね」
の展示なんだと私は捉えました。
その作品に対して、まるで「全力の大規模本展」かのように振る舞う、空回りするステートメント(文章)。
素人さんや見慣れていない人が見たら、多くの方が「そういうもんなのかな...」と首を傾げながらも、納得せざるを得ない文章
それを私は問題視した訳です。
2.
今回SNSでこのような発信をした際に、多くの声が寄せられました。
この一連の現象、つまりカプーア自身や展示構成側の人間が、今回の展覧会に対して、批判や疑問の反応を織り込み済みで、あえて見劣りするような展示構成を意図していたのであれば、
そして、そのように反応が相互に発展して、大きな議論が巻き起こることを予見していたのであれば、
ステートメントに書かれている『天井の無い「監獄の誕生」が目に見えない形で出現している』ことを
展示空間外にも実際に露呈させたという意味で、
非常に「してやられた」優れた展覧会として捉えられるでしょう。
3.
しかし、見られる反応の中には、
ただただ「みっともない」「かっこ悪いな」と感じる
次のようなご意見もありました。
これらは、一般鑑賞者に向けられた【専門家】を名乗る方々の意見です。
私は改めて冷静に考えて、このような返答の仕方はやはりあるべきではないと考えました。
そこで、今回の記事は展示や作品についてよりも、この【専門家】の振る舞いについての問題提起を行いたいと思います。
【展示を開催するということ】
そもそも公開されたコンテンツに対して、芸術や美術に限らず、どの分野でも、「企画側の内情を言い訳に、見る側に正当性や同情を求める」事例は稀有かと思います。
他ジャンルで例えるならば、仮にあなたが鑑賞した映画に不満があったとして、「予算がなかったから…」なんて言い訳をする映画監督をみたことはありますか?
数年前に「カメラを止めるな」という映画が一世を風靡しましたが、あれは低予算映画として有名な事例ですね。
また、「パラノーマルアクティビティ」「SAW」など、低予算を逆手にとった制作や見せ方を行う事例はたくさんあります。
(また角が立つのが嫌なので、アートの事例は避けています)
これはアートの世界でも全く同様で、仮に予算が限られていても、空間が小さくても、素晴らしいと感じる展示はたくさんあります。
本来、展覧会は「お金がかかっているから仕方ないのか」と同情を求めるものではないかと思うのです。
それどころか【専門家】の主張が
「限られた予算の中でこれだけできていればいい」
「無料なのに文句言うな」
と言い張るのは、それはつまるところ
展示空間そのものの見劣りや不十分さを自覚していることを、逆説的には認めてしまっていることになっているかとも考えます。
【今回の展示の場合】
今回の展示はどのようにするべきだったのか。
これについては、裏事情まで正確に把握できていませんので断定することはできませんし、するつもりもありません。また正解があるものでもありません。
しかし、あの点数、あの物量の範囲内であれば、おそらくもっと魅せる構成はできたのではないかと思います。
もしくは、作家の強い意志の上で、あのような配置・構成にせざるを得なかったのであれば、その世界観を補完するステートメントにすればいい。
(今回の展示に関しては、作家本人も特に言葉を残しておりませんし、「作家側の強い意志やこだわり」はあまり感じ取れませんでしたが...)
私としてはどちらかというと、
こうしたかったという文章が先行し、蓋を開けてみたらあれしかできなかったというギャップが生み出した奇妙さが、あの空間には漂っているかのように感じました。
造形としては確かに
のように捉えると、モダニズムとポストモダニズムの中間で揺らぐ、今の美術業界を象徴しているようにも見えて、おもしろさはあります。
しかし、これは作品そのものを鑑賞しただけであって、ステートメントでそういう補助線が引かれている訳ではありません。
あの一見整然と見える展示から、あえて深読みをするのは大いに自由かと思いますが、少なくとも自分は(あくまでも個人的にですが)
「大御所を呼んでこれた」ことは素晴らしいが、「展示の工夫には若干乏しい」
ように見えました。
あるいは
「常識に最もとらわれているのは展示側ではないか」
「なぜありきたりで一見平凡に見える展示を行うのか」とも感じました。
率直に。すみません。
【専門家に見られた論点ずらし】
また今回の投稿に対して、数々の反論がありましたが、
その大部分が、今回自分が指摘した内容に直接言及していないことが、業界の問題点とも感じました。
乱暴に言うと、あれは「初心者」に対しては、展示のしょぼさを誇大した言葉で誤魔化して煙に巻き、「なんだかわからないけどありがたいものだきっと」と思わせてしまう展示かと思います。
(これは私の投稿に多く寄せられた感想からも見て取れるかと思います。)
あるいは【専門家】に対しては、用意した言葉に含まれる大きな意味と、作家の経歴や文脈に頼ることで、知識の有無を競わせ、【分かった風な解釈】を促すスキームが組まれているようにも感じます。
そして、以上のような内容はあくまでも私個人の見方であり、その内容について、賛同や疑問、反論が展開されることで、現代アートについて多角的な鑑賞と議論が生まれていたわけですが、
途中で【専門家】を名乗る方(名前はあえて伏せます)から、「こいつは見方をわかってない」とねじ伏せるような横槍が入りました。
仮にあの展示は一般向けたものではなく、一部の「見方がわかっている」専門家向けの展示と主張したいのであれば、最初から文面でそう断ればいいかと思います。
(もし仮にそうだとしても、展示の在り方としてあの空間構成と文章が、本当に調和して優れていると言えるのかを問いたいですが。)
しかし、このような私の主張・論点に対して、
あのステートメントや展示構成が
どのように優れているかを補完する反論ではなく
というような【専門家】としての主張が登場して、驚き呆れてしまいました。。
【現代における批評の在り方とは?】
もう一つ多く見られ疑問に感じたのは
「批評になってない」という主張です。
おそらくここ主張されている「批評」とは、
業界雑誌への寄稿や、書籍として表明するような類のもので、
「過去の哲学や美術史、他の展示や造形事例から比較検証し、今回の事例について丁寧に評する」ような
従来の(古風な)形式のことを指しているかと思います。
しかし、そんな丁寧でマニアックなことを、数枚のスライドの中に盛り込み、SNSで発信したところで一般の方々に見てもらえるのでしょうか?
そもそも私のアカウント運営の理念は、「初心者を含めたより多くの人」への美術の啓蒙、発信なので、"専門家"からの展評添削を求めているものではありません。
(関心を持っていただいているのはありがたいですが)
それでももし仮にアンサーされるならば
「下品」
「資格がない」
「実績がない」
「リテラシーが低い」
「これだからインフルエンサーは」
などという方向性で、【自身の経歴や実績と比較する】切り口でのアンサーではなく
例えば「A型のカオス」という私の造形の捉え方、言語化について、
とか
とか
などの指摘がいいのではないでしょうか?
カプーアの大規模展示との比較についても
と”不十分さを受け入れさせる”方向性の主張ではなく
などの言説展開が建設的でいいかと考えますが、いかがですか?
業界内で「褒め称え合うのみ」の批評や
業界外の存在を排除するだけではなく
このように【言論や展評を戦わせ合う批評精神】を、
【専門家】の方々がもっと積極的に持ってもいいのではないかと私は考えます。
そして、もしその体力がないのであれば、せめて【専門性】を振りかざして、言論を攻め押さえつけようとすることだけは避けるべきかと思います。
【専門家各位に問いたいこと】
これは参加人口が少ない芸術界隈ならではかと思いますが、普段「私たち一般の人」が仮に褒め称えても、一向に表に出てこないのに、少しこき下ろすと途端にガヤつくことが、今回の件でわかりました。
さらに「一般からの意見」に対して、
真摯に受け止めて反省することはせず、
「私たちが悪いのではない」
「"専門的な"視点が足りないせいで、見れていないだけだ」
「リテラシーが低い」
「展示の苦労をわかってない」
などという形で、在りもしない権威性を使ってマウントを取りたがることが、今回の件ではっきりしました。
(この性質については非常に残念だと感じています。)
そうやって自己の正当性を主張する方々は、今回の私の投稿の引用ポストの一覧をご覧になったのでしょうか?
この展示に対しての感想として、肯定派、否定派、疑問派と、実に多数の議論が大きく展開されていることは紛れも無い事実です。
つまり、もうこれは確実に世間的には「素晴らしいと断言できる内容とは言い切れない」んですよ。
(【専門家】としては知りませんが)
この事実については、まず率直に受け止めるべきではないのでしょうか?
しかし、それに対する言及や反省、展示を検証をする
【専門家】からの声が一向に届いてきません。
これはおそらく
「こきおろしたら、次は自分に矛先が来るかもしれない」
「褒めておけば自分もそうしてもらえる」
「どうせ業界外の素人が言っていることだから」
というような業界内の馴れ合い、矯正された批評姿勢、ひいては芸術文化の衰退によるものかと思います。
予算がどれくらいかかり、展示にどれだけの苦労をしたかを主張する前に、率直に成果物として一般層から「ショボい」と言われてしまったことは、真摯に受け止めるべきだと思っています。
そして、展示内容に関わらず結果的に、この展示や作家、作品、内容について触れ、考える人が多く出て来たことを、一定の成果として捉える懐の大きさ、揺るぎない自信を抱くべきではないでしょうか?
芸術は制作側の一方的な提供、押し付けだけでは発展できないこと
鑑賞者とのコミュニケーションによって社会現象を起こし発展していくもの
というのが、共通認識としてあったつもりだったのですが、、、
それについては「専門家」を名乗る方々は
どのように認識しているのか問いたいです。
【1鑑賞者しての感想】
繰り返すようですが、今回の展示に関しては正直
無料で、世界的に活躍するアーティストの世界観の切れ端を味見できるのはありがたい
という感情よりも
あのカプーア作品をこんな中途半端な形で着地させられてしまうことへの不満、憤り。
入場料払ってでも、ある程度作り込まれたものが見たかった。
展示の不十分さを取り繕うかのような、「従来のカプーアの世界観」を説明するステートメントで、さらに展示の世界観がちぐはぐになっていることに違和感と失望感が強かった。
というのが率直な感想です。
この展示を手放しに喜ぶことは、場合によってはカプーアに対する認識や評価を下げてしまうことにも成りかねないし、厳しい言い方になりますが
「日本ではこの程度の展示で満足してもらえる」とも思われかねない。
とも考えています。
有名人のドローイング陳列ではなく、もう少し本場の世界観に接続できる導入や構成の工夫をする、モアベターな選択肢もあったのではないか
とも考えています。
【専門か素人か】
特に医療や科学などと違って、芸術の専門性は非常にグラデーショナルなものだと思います。
時に普段から専門的に扱っている分、見えないこともあるのです。
実際私は、アートなんて全然興味がない素人の方の見方や意見を聞いた時に、
ハッと気付かされることが多々あります。
(今回も女性視点で鑑賞されている方の投稿が流れてきて、大変興味深かったです。)
逆に【専門家】を名乗る方とお話する機会もたくさんありましたが、
「意外とそんなことも知らないんだ...」って思う方も多いです。
つまり、本来は初心者、素人だからと引け目を感じる必要もないし、
【専門家】だからと鼻を高くして見下す権利も正当性も、実は存在していないわけです。
またも映画で例えて申し訳ないですが、宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」は見事に賛否分かれています。しかし、それに対して作家や企画側が果たして「言い訳」をしたでしょうか?
また、その議論がより多くの関心を惹き、あの作品のさらなる考察を生み出していることに気づいていますか?
また、私も今回の件で改めて自らの立ち位置を考えた際に、「素人とは思われていないかも」と自覚することにもなりました。
こんな何者でもない、実績も資格もない、1個人のアカウントの発言に対して、業界関係者からの強い反応が返ってくるとは正直思いませんでした。
あくまでも個人的に「アートの見方や面白さを伝えたい」アカウントとしての発言のつもりで、この投稿によって多くの人の興味関心考察が進み、アート業界がより盛り上がるかと思っての発言だったのです。
しかし残念ですが、これからは業界や【専門家】の方々の監視や糾弾があること、実は批評文化など存在せず批判批評されることに脆いデリケートな業界であることを意識し、発言に留意したいと思います。
基本的に「全て褒めちぎり」の手法でのみの発信に留めるよう努める所存です。。
【最後に】
ここまでまとまらない走り書きをここまでお読みいただきありがとうございました。最後にここまで読んでいただいたみなさんに一つお願いがあります。
この記事は無料ですが、もしご購入いただいた際は、
予算に限りのある【専門家】の方々へ、これからより良い展示ができるように全額寄附させていただきます。
なのでご賛同いただける方は、ぜひこの記事を購入をよろしくお願いします。
最終売上総額はSNSにて公表し、集まった総額の10%を私の資金から上乗せし、今回の展示企画をされた方にお渡しさせていただきます。
(締切2023年内)
(↑募集を終了しました。いただいた金額は後日GYREの運営関係者にお渡しさせていただきます。その際はSNSにて公表しますのでお待ちください。)
ただ繰り返すようですが、
作家の知名度や大きな哲学を振りかざし、
「見る側を黙らせる」
「納得せざるを得ない、否定できない武装」
をするような主張で意固地になる構成ではなく、
仮に小規模作品の展示だとしても、予算が限られていたとしても、これは素晴らしいと思える企画構成を発案してくれる未来を待っています。
「なるほどこう来たか」と私たち見る側を「唸らせてくれる」ような、
【専門家】としての【専門性や豊富な経験、発想力】を駆使して、次回以降の展覧会を作り上げていただけることを期待しています。
美術を愛する1鑑賞者として
美術解説するぞー ビジュラジオ
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