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練馬区立美術館「池上秀畝」展の感想

まず、池上秀畝展のほか、安井仲治展、木村伊兵衛展も一日でめぐったので、かかった費用を記録しておく。
練馬区立美術館 池上秀畝展
特別展大人1000円、図録3080円、駐車場料金1200円

東京ステーションギャラリー 安井仲治展
大人1300円、図録3760円、駐車場料金1000

東京写真美術館 木村伊兵衛展
大人1200円、駐車場料金960円

食費で2000円ほど、その他交通費がかかった。

 さて、練馬区立美術館に来るのは、2022年の日本の中のマネ展以来、2年ぶりだ。マネ展については、前にすこしだけ不満を書いたが、基本的には企画力のあるところだという安心感もあり、楽しみにして行った。今回の池上秀畝展についてもやはり言いたいことが良くも悪くもいろいろある。
 まず「高精細画人」というキャッチフレーズが適切だとはとても思われないということ。その画業を通覧すれば、細密より構成の人だろう。本人が、細密を極めることに興味があったとは思えない。それに細密力で言えば師匠の荒木寛畝の方が格段に上で、それは本展の目玉である杉戸絵において明らかだった。

出典:https://www.museum.or.jp/report/115848

 右が荒木の孔雀だが、描き込みの精密さはおもわず息をのむ。それと比較すれば、左の池上の作品は描き込みは大雑把ながら、その色使いと構成が光っており、引きで見たときの力強さは素晴らしい。池上が師匠を超え出ているのは、この点においてであろう。
 本展は、画家本人の宣言をもとに、新派と旧派という当時の対立構図を相対化しようとする意図があったようだが、それに成功しているとは言い難い。やはり、池上は旧派らしい画家と言わざるを得ないと思ったのは、型にはまった作品を描くときの発揮される卓越した筆力にある。型にはめたときに十全な実力が発揮される一方で、模索をつづけて作風を変遷させていくときの絵というのは、どこかぎこちない筆運びが感じられることも多かった。私は旧派の画家というものをあまり知っているわけではないけれど、ここに旧派らしさを見ないわけにはいかない気がする。今回の展示で、技術は卓越しているのに、型にはまっていて凡庸というのはこういうことなのか…と感じ入ることができたのは貴重な機会ではあった。

 晩年になると、あきらかに筆力が落ちているように感じられたが、それでもなお最晩年の《神風》は代表作と言える出来栄えだった。画面全体のほとんどを埋め尽くす激しい波の構成は異色で、画面構成の緩急をつけるのが上手い池上らしくはない。描写はどこをとっても緊張感にみなぎっていて、その筆運びに迷いは一切見られない。これが70歳の作というのだから、その年齢で代表作を生み出せるということには素直に驚く。

出典:https://ameblo.jp/artony/entry-12847082749.html

 六曲一双という大画面ながら、画面の中に押し込められて、その中で何かが激しくうごめいて、圧殺されてゆくような強い印象は、藤田嗣治のアッツ島玉砕を想起した。藤田もそうだし、今、大阪中之島美術館で回顧展を開催している福田平八郎もそうだが、戦意高揚画にその画業において代表作と呼びうるようなハイレベルな作品を残す作家が多いという事実について考えるとき、その戦時という政治的背景と日本美術という概念そのものが国民国家の動力源として近代に生み落とされた、その因果を思わずにはいられない。
 最後に、この展覧会におけるキャプションの解説は、なんとも間が悪いものだった。キャッチーで親しみやすいようにというのが昨今の流行みたいだが、そういうことをやるならお子様向けの可愛らしいポップとかで別でキャプションを設けるなどしてもらえると良いのではないかと思う。

以上

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