シチューを温めるだけの話「何かを信用すること」
一昨日シチューを作りました。きのこバターのシチューです。美味しかったです。
小学生の時の話
僕は電子レンジの仕組みをしらなかった。電子レンジに物を入れると大体温まる。だけどどうして温まるのかは何もしらない。
でもどうやら火で温めているわけではないらしい。それを知ったとき、使うのに少し躊躇した時があった。爆発したらどうしよう。
そんな話を友達にした。
「大丈夫っしょ、爆発したとこ見たことない」
それから色々な話をした。お風呂の水はどこから出てくるのかとか、暖房はどうして冷たい風を温かくしてるのかとか。
「考えすぎ、興味ない」
興味ある人間は僕の周りには少なくて、残念な気持ちになった。
僕は周りと違うのだと思うようになった。
どうして皆興味がないのだろう。僕たちが日頃使ってるものなのに、僕たちは何も知らない。パソコンも鉛筆も呼吸のことさえも。何も知らないのに・
どうして僕たちは当たり前のようにそれを「大丈夫」といって信用してるのだろう。
信用とは他者に向けるものではなく自身に向けるべきものだと私は思う。
最後に誰かを信じるかどうかを選ぶのは自分だから、それを行った自身に向けているべきだ。
何が起こっても、最後に誰かを、何かを責めたりしてはいけない。そう思っている。
そして、私は自分を信用している。
だから信用するしないの判断を行うことができている。
本当にそうなのか?と自分に問う。
信用することを選ぶことができる人間は、そもそも自分を信用しているといこと。自身の知識が、経験がそれを選択している。
だけど、自分を信用していない人間がいたとしたら、他者に依存するしか選択肢がない。ということになるだろうか?
そもそも、信用について選ぶこと自体が少ない。信用しなければならない。そうしないといけないことの方が沢山ある。
私は、信用するしないを選択しているようで、その選択はまったくの根拠を持たない。選択しているようでしていない。知識が浅い。
知識があっても、完璧に言い切れる自信がない。自身以外を信用していない。
もし完璧な知識があって、それでも裏切られたのなら、それはもう自分のせいではない。そうやって、最終的には信用を他者に投げかける。
そうして、私は結局「まぁ大丈夫でしょ」といって物事を判断してしまう。
どうしてそうなるのかは、私にもわからない。小学生の僕は周りと違うのではなかった、一緒だった。
そして、それは今になっても変わらない。
変わらないけど、私は電子レンジを使う時に、時々思う。
「使えばシチューは温かくなる。だけれど爆発するかもしれない」
別に温かくなくても食べることできるのに、温かいシチューが美味しいということを知っている私はそれを選ぶ。
爆発とほんの少しの幸せ、幸せを取る自分はもしかして馬鹿なんじゃないかと思ってる。
どうしてそう選択したのか、自分でもわからない。
それでも私は、今日も電子レンジのボタンを押した。
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