なんだか大層な書き出しだけど大した話ではない。

私は果たして何処へ行くのだろうか。

何処からやってきたのだろうか。

多分、わたしは大多数の人が思っているような「わたし」ではない。熱い信念を持って日々を邁進していると思われすぎてやしないか。

何か目指す立場のために、確固たる意志や目標に突き動かされてここに来たのではない。
今歩いている道以外の選択肢が無いからここにいる。なんだか知らないけれど。まあそれでも何故続けているかっていうのはいつか書きましょう。

話を戻すと、もはや道などという概念はないただの土地を歩いている。人生というのはもっとこう、沢山の岐路があり、うねり、壁やら谷やら、越えよとばかりの障壁があるもんだと思ってたんだけど、これは土地、だな。

わたしが歩いている場所はとても広大だ。
広く、見晴らしが良く、遮るものはない。
先はあまりに遠くて霞み、前後左右に見えるのは地平線。なんだお前の人生簡単だなと思うなかれよ。ここには行き先を告げる指標も、誰かが先を歩いた跡もない。道があれば行く先は決まる。そんなものはない。景色も変わらなければ、天気も変わらない。

さて。
小さな脳みそで如何に効率よくゴールを目指すかを考えたところで、歩く以外の方法はない。先を急いで走ったところで走った先に素敵な何かがあるなんて誰も言っていない。
でも何故だか人は走りたがるし、向かった先に欲しいものが待っていると信じてやまない。

私はずっとこの荒野を恐れていた。早く先へ行かなくては、結果を見つけなければ。きっと先には沢山人がいて、後からも沢山の人々がわたしを抜かしてゆく。若くして先に結果を出したあの人、大きな成功をしたあの人、そんな彼らにきっとわたしは嘲笑されるのだ、まだそんな所にいるのかと、1日も休まず歩き続けられないお前は意志が弱いのだ、甘ったれなのだと。

これについて、あぁそうだったのかと、思えるようになったのが2019年だった。

わたしは歩き方を気にしすぎていた。
わたしが歩いている場所はとても広大だ。
ここには行き先を告げる指標も、誰かが先を歩いた跡もない。そして、わたしが歩いた跡を誰かがなぞることもない。

概念としての「人生」へは絶対的に誰も介入できない。小説のように、様々な人物によって物語が描かれることはないのだ。わたしの世界はわたしの目でしか描かれない。

この荒野へは、わたしの先にも後にも人は来ない。

この荒野は私のものだ。

人生を終える日にたどり着いた場所にもしも神様が何か用意してくれているとしても、おつかれ!と書いた紙切れぐらいだろう。

だとしたら、死んでしまうその日に、あぁわたしはよく生きたなと思うかどうかでしか人生は測れない。ならば、何をして遊ぶか、いかに美味しいものを食べるのか、誰と過ごすのか、そして過ごした日々によって何を創るのか。

そして素晴らしいことに、この荒野の進捗は口外秘ではない。1年に一度しか集まれなくても、私は今どうやって歩いているのか、はたまたどのように休んでいるのか、そんな進捗を共有する友人と機会も私には与えられている。

続けた先に何が得られるのかは考え出したらきりがないので、しばらく置いて、1日ずつを生きる2020年がきっといいのだろうな、という話。

レコーディングを終えたそんな私は、アニメの鬼滅の刃とキングダムを一気見し終わったところです。


おわり。


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