創価学会3世の私に入信動機のある理由
私は学会3世なので、創価学会への入信動機はなかった。
そう、なかったのだ。
地獄を見たあの時までは...
小学生、中学生の頃から未来部の活動には参加していた。担当の男子部員さんから御書を教わり、中等部の活動にも中心者として参加するようになっていった。
しかしだ、当時の私には信心の確信というものがなかった。なにせ、信仰から得られた功徳の体験がなかったのだ。朝の勤行をして学校に行った日は、なぜか一日調子が良いなぁという実感はあったが、信心の確信とまで言えるものではなかった。
そもそも、人生に宗教が必要なのだろうか?もしかりに、必要であったとしても、日蓮大聖人の仏法が本当に最も優れているのだろうか?他により優れた教え、哲学がありはしないのか?そんな疑問が、いつもついてまわっていた。
さらに、そもそも、なぜ皆んなは池田会長(当時)のことを先生と呼ぶのだろうか?当時の私は、自分の学校の先生でもない池田会長のことを「池田先生」と呼ぶことに、若干の違和感を感じていた。(当時はまだ池田先生を「師匠」と呼んでいる雰囲気ではなかったように思う)
それでも自分なりに確信を掴みたい、もっと学会を解りたいと思い、勤行唱題に励んでみたりもしたが、その実践はいつも一週間と続かない。
それでも何かに挑戦したくて、高校入学と同時に、先輩に勧められるままに音楽隊に入隊した。今から思えば当時の音楽隊には理不尽ともとれる行動もあったが、それも全て訓練と、勇んで活動した。
そんな私が信仰体験らしいものを掴めたのは、創価大学受験の時だった。
そもそも創価大学を目指したのは、創価大学の学費が飛び抜けて安かったからだ。当時の国公立大よりも安かった。創価大学を目指したのは、家庭の経済的な事情からであって、決して池田先生を求めての決断ではなかった。
そんな当時の私の学力は、英語と国語を除いて、とても創価大学入試を突破できるレベルではなかった。(英語は抜群だった)学校の先生からも、すべり止めを受験するよう、強く勧められた。(すすめられるままに滑り止めも受験したが、不合格になった)
当然、受験勉強はした。題目も百万遍を目標にあげ始めた。(題目百万遍は、人生初の挑戦だった)しかし、模試の成績が全く芳しくない。題目も全くあがらない。
当初、私は「創価大学に受からせて下さい」と祈っていた。しかしだ、祈りの内容がおすがり信仰のそれでは、歓喜が湧くわけがない。歓喜の湧かない題目が続く道理はない。
時間的にも、状況的にも追い詰められた私は、ある時から、「ええ〜い、受からせて下さいなんて乞食みたいな題目なんかあげてられるか。使命があるなら受からせて下さい。ないならスッパリと落として下さい。どうだ御本尊様!」と、御本尊様に向かって啖呵を切るように、開き直って祈るようになった。すると、一日三時間の題目がスルスルとあげられるようになった。それに伴い一日の生活のリズムも整い、勉強にも熱を入れられるようになった。目標の百万遍唱題も、なんとか達成できた。そして、奇跡的な出来事も重なり、なんと経営学部に合格することができた。
私は晴れて10期生として創価大学に入学した。
しかしだ、そもそもが求道心から創価大学に入学したわけではなかった私には、創価大学で学ぶ確たる目標がなかった。一応、創価学会の学生部組織にはついたが、学業は惰性に流されていった。一年次は、まぁなんとか授業にも出た。二年次になると、授業の履修はしたものの、出席はサッパリだった。
その当時の私の信心は、散々なものだった。時は第一次宗門事件の渦中であり、週刊誌は狂ったように池田先生の批判記事を掲載していた。電車に乗れば、車内の中吊り広告は池田バッシングの嵐である。
また折悪く、私がアルバイトしていたコンビニのオーナーは、大の創価学会嫌い、池田大作嫌いであった。自身も折伏を受け、御本尊様もお受けした(その後、自分で破り捨てたそうだが)経験を持つオーナーである。そのオーナーと顔をあわせる度に、週刊誌片手に、学会批判、池田大作批判が始まる。君もいつまでも騙されてないで、やめてしまえと促される。しかしコチラは、信心の確信も薄い若造である。反論を試みるが、いつもせせら笑うオーナーに一蹴された。
そんな状況に、私は苦しんだ。そして、その苦しみを御本尊にぶつければいいものを、信心の基本がなってなかった私は、御本尊の前に座ることをせず、ただ胸の内に黒々とした煩悶を抱えるだけに終始した。学生部の組織で指導を受けようという考えなど、毛頭なかった。
そしてある時、こんな風に思ってしまった。
こんなに苦しむのは、私が創価学会員だからだ。だったらいっそ、創価学会をやめてしまえばいい。そうすれば、こんな苦しみともおさらばできるではないかと。
そしてある日、学生部の先輩の前で「私は創価学会を辞めます!」と脱会宣言をしてしまった。先輩は泣いてとめたが、私の決心はひるがえることはなかった。
脱会宣言をしてしまった私の胸の内は晴れやかだった。もう会合に出る必要はない。勤行唱題を行う義理もない。創価大学入学時からまとわりついていた一切の束縛から、解き放たれたかのような解放感を味わった。
しかし、現実の生活は暗澹たるものへと急落していく。
当時、大学にも行かず、アルバイト三昧だった私の収入は、育英会の奨学金も含め、20万程にもなっていた。1980年代の20万である。当然、生活に余裕が出るはずである。
ところがだ、なぜか、毎月月末になるとお金を使い果たしており、生活に汲々としなければならなかった。
それにかてて加えて、アルバイト先での私の素行が悪化していたのであろう。いつの間にか、職場での私の信用はガタ落ちしてしまっていた。決して自惚れたり、仕事をおろそかにしたつもりはない。しかし、アルバイト先での私は、ズタボロになっていった。
あれほど楽しくアルバイトしていたはずなのに、誰からも信用されなく、声もかけられなくなった日常。そして、日々の生活から完全に失せてしまったやりがいや目的感。
それは完全なる孤独だった。心の内に光はなく、ものを見つめる目にも輝きが失せていた。生活にはりはなくなり、私の心も日常も迷走を続けていた。しかし、救いを求めるあてもなく、心の内を語れる相手もいなかった。
そんな鬱々とした毎日が、数ヶ月続いたであろうある日、突然、学生部のグループの先輩が、血相を変えて私のもとを訪れてくれた。
オイ、ジャイアン!
お前、学会辞めるって言ったんだって?!
その先輩の表情、声の響きは、私のことを心の底から心配しているそれだった。その一言で、乾ききっていた私の心は潤された。先輩の真剣さ、誠実さに、私の心は打たれた。
こんな私になっても、創価学会は私を見捨てないのか!創価学会は、こんなにも私のことを思ってくれるのか!だったら、もう一度、信心をしてみよう。
思えばそれが、私の入信決意だった。その真剣で誠実な先輩の姿こそが、私の入信動機となった。
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