ググるは会話の愉しみも奪うのか。

会話はキャッチボールだなんて言葉のように、人との会話にはなにか特別なものがあるように思う。特に直接あってお互いの顔を見ながら対話をすること。その人のこまかい表情や仕草なども含めて、感じる、感じてもらう、のやり取り。同じ言葉を発しても伝わる人と伝わらない人の違い。

いま、ネットの社会になり、コロナの洗礼を経て、直接対面しないことが多くなった。先日会った大学生なんて、入学してからオンラインばかりで(直接の対面が)緊張します、なんて言っていた。早くマスクもなく話し合える時代が来るといいね。

ネットの社会のコミュニケーション。つまり文字だけのやり取り。私は話し下手なので、文字のほうが正確に漏れなく伝えられる気がしているので、悪くないなと思っている。想いを正確に文章で伝えること、というのはとても大事に思っていて、対面を軽んじているのかもしれない。文章なら時空を超えて伝わるおそれ?希望もある。
という反面、文字だけのやり取り、ネットだけの世界というのは実に薄っぺらい、表層だけのものとも思うのだ。ネットはリアルの補完でしかなく、それがすべての社会は味気ない。このことを忘れてはいけない。

例えば、営業マンが取引先を訪れるとき、私たちが旅行で観光地を訪れるとき、初めて誰かの講演を聞くとき、初めて友達の友達に会うとき、そんなとき今ならみんな検索が役に立つ。相手の会社を調べたり、SNSをチェックしたり、誰かの体験談を読んだり。
それで、基礎知識を入れておいて、いざ対峙する。人によっては基礎知識どころか豆知識、雑学、歴史、生い立ち、すべてを調べ上げてからその場に望むなんて人もいるだろう。
でもそれって大事なことかな?

私が一番罪だなと思うのは下調べは感動を奪うということ。知っていることに心は動かない。
そりゃ、写真よりも数倍すごい、ネットにないものを目の当たりにする、ってのはわかる。わかるけれども、初めて全く予備知識もないままにそのこととその人と対峙したときのこちらの対応、感激、みたいなものの方をより大切にしたいと思うのだ。

例えば、誰かに合うとき、事前に調べてその人が旅行が好きだと知っているとする。そして、「旅行が好きなんですよね、どこへ行ったときに感動しましたか?」と質問した時の答えと
「趣味は何ですか?」「楽しいことはなんですか?」
と質問したときの答えでは、話の広がり方が違うよねということなのだ。後者のほうが楽しい話になりそうじゃないか。

これが、時間の限られたインタビューとか、質問ならまた別なのだけど、日頃のコミュニケーションはそうではないところに醍醐味がある。話の脱線や広がりにこそヒントが転がっている。

わたしのnoteは世の中で見つけたわたしなりの真理を投稿するつもりだったが、迷いのあるようなことも投稿してしまった。そんなところにも真理が転がっているのかもしれない。

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