ブツブツ交換はなぜ気持ちがいいのだろうかメモ

気持ちいいのは言葉じゃない。ダイレクトに心に響くから気持ちがいい。言葉で説明しないから気持ちがいい。頭に言葉が浮かぶ前に心が動かされているのだ。

それと同じで、わたしたちは便利さを追い求め、変換、交換をするようになった。代表的なものがお金だ。わたしも消費だけしているときには気づかなかったのだが、その世界を捨てて、つくることをはじめたときに、お金に変換することがとてもバカらしく感じることがあった。例えば農産物、自分で長い時間をかけて作ったものが、お金に変換されたときの残念感。お金にしようとすることに意味を感じなくなった。効率が悪いのだと言われればそのとおりなのだけど、それだけの話なのだろうか。そして、自分の周りから極力お金を排除して、できるだけ自分でつくる、それが叶わなかったら交換するという暮らしにシフトしていくと、逆にお金がどういうものかわかりかけてきた。そして、お金をもらうこと、払うことに対しての意識が変わった。

ブツブツ交換はお金に換算しない。どうしても街から移り住んだわたしには、すべてお金に換算しないと気持ち悪い気がしていた。それは幻想だった。田舎にはお金に換算されない価値がいっぱい転がっていたのだ。それを当たり前のようにお金と同等に扱い、人とつながっている暮らしがそこには残っていた。つまり、お金がなくても生きていける土壌が脈々と受け継がれていたのだ。

それはなぜだろうか。

自然だ。
この大いなる自然。
自然とやり取りをするとき、そこにお金は存在しない。
自然の恵みをいただき、永続的な仕組みを壊さないようにする。つまり取りすぎたりせず、自然のバランスを壊さないように施す。
お金というものに変換しないダイレクトなやり取りがそこには存在し、それを(自然の一部である)人は気持ちよく感じる。そしてそういうものを幼少から見て味わってきた人は今でもそれを大事な取引として扱ってくれる。

だけど、いまそれが変わりつつある。都会を完全に飲み込んだお金の世界が広がって広がって、田舎をも侵食しようとしている。便利、という言葉にほだされて、人が心までを売り渡してしまってきている。すぐそこに自然というお金に関係のないものが転がっているのに、心は街に向いてしまっている。


ものを交換し合う時代は、皆がつくる人だったはずだ。つくれない人は労働力などの自分の力でお返しをしたのだろう。そこの公平感は実は正しいものじゃなかったんだろうか。気持ちがいい交換だったのではないだろうか。
しかし、当時の人達はもっと公平に、誰もがわかる形にして発展していこうと考え、絶対的な価値を持つお金を生み出した。そしてそこに縛られた。それは今までずうっと続いている。

この閉塞感のある時代に、なんとか楽しい世界を取り戻すには、全てでなくて良いけれど、ブツブツ交換のような変換しない、それぞれの作った価値のダイレクトな交換を増やすことなのではないかと思った。


お金に批判をしたいわけではない。消費を少し考えようぜという話です。気持ちの良い交換を増やそうぜという話です。

ちょっとした自分の中の気づきでした。
忘れないようにメモしておこう。

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