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細部というきっかけに気づけるかどうかとそれを膨らませられるかどうか。

このことに気づけたことは大きい。
説明してみる。

のんきさんと木の動物を作るとき、はじめはどこからこんなに(動物の足に、胴に、顔に、、、)適した枝を持ってくるのだろうと不思議でならなかったのだが、自分でも懸命に探しているうちに、あるとき、「見える」ことに気づく。
いっぱい動物を作り、いっぱい手足に適した枝を探しているうちに、立っている木や落ちている枝が、あの動物の手に、あの動物の足に見えてくるときがある。
その些細な部分に気づいたら、残りの部分を作る作業をするだけだ。そんなときはうれしく楽しい作業に夢中になれる。
つまり、作ることのきっかけはその「手足に見えた」枝というきっかけであり、わざわざ探してきたものではないのだ。その後、その動物を作るために各部を探すことはよくあるけれど、はじめに見えた部分と、それを元に膨らませた完成形のイメージはずっと頭に残る。
あとは技術と経験の問題で、そのイメージにどれだけ手を動かして近づけていけるかなのだ。ここはまだまだ圧倒的に足りてない。経験の量だろう。

そして、最近思うのは、木工だけに関わらず、すべての事象にこのきっかけの細部とふくらませる全体があるということだ。料理もそうかもしれない。人間関係もそうかも。
細部というかヒントのようなきっかけが見えて、それをふくらませることができたものはだいたいうまくいく。ふくらませるを別の言葉で言えば、「描けた」ということ。頭の中で描けた絵を実際に落とし込む。

ということをアーティストはやっているのかなぁと思った。私も身につけたい技術なのだ。

説明がうまくいったかはわからないけれど、人に説明をすることで自分に落とし込む作業だからそれでいい。文字で伝える技術もまた磨きたいよね。

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