the first slamdank

書かざるを得ない案件ができた。

スラムダンク。そして、バスケットボールのこと。

わたしは実は中学生の時にバスケットボール部に入っていた。ポジションはガードだが、私より背の低いメンバーが二人いたので、実はSGとかSFだったのだろうけど、当時はそんなポジション制ではなかったような気がするし、(ゾーンプレスとかマンツーマンディフェンスはあった)頭でプレイしようにも情報が少なすぎた。ただただ愚直に個人の能力に頼っていて、チームとしては実に未熟だったと思う。戦術、皆で頑張って攻めて守るって感じだ。

バスケットボールがやりたいと思ったのは、小学校の頃のポートボールがおもしろかったことと、小学校でのサッカークラブ経験に一区切りついたこと(サッカーはもういいや)などがあったのだろうと思う。近所の友人たちがバスケ部を選んだことに流されたのも大きいのだろう。

スポーツ経験はサッカー、バスケット、バレーだ。

閑話休題。
その頃のNBAはジョーダンがデビューしたて、マジックジョンソンとラリーバードがファイナルで激突していた頃のようだ。

ようだ、というのは、自分の日々行っているバスケットボールとテレビですらやらない遠い地のバスケットボールは同じものではなかったような気がする。だけどこの後、バスケを辞めてからもNBAはなんとなくチェックしていた。おそらくジョーダンの活躍に全世界が注目していたのだろう。

そして、、時は流れ、スラムダンクがジャンプに連載されたのが、90年から96年だという。わたしは18歳から24歳のころ。ジャンプでスラムダンクを観ていたかもしれない。たしかにブームだった。おもしろい漫画で、次の週が待ち遠しいという気持ちはあったのだろうと思う。この頃は欠かさずジャンプを買い求めていた記憶はある。自分で自由にできるお金を稼ぎ始めた頃でもあるので。

ただ、飽きっぽい性格だったこともあり、なにかにそれほど深くハマることはなかった。
18から24。いま振り返れば多感な時期にキーワードとして残るのは、インド、ビデオ、北の国から、ゲーム、競馬、等だろうか。

スラムダンクはひとコマひとコマ、セリフをひとつひとつ覚えるほどの熱中ではなかったが、バスケ部の記憶とともに一つの要素として心に残っていた。流行ったよねー知ってる知ってるオレ、バスケ部だったんだよ程度である。

そこへ、50になったいま、映画でスラムダンクだと?!たしかに少し前からハチムラ、ワタナビの活躍により、NBA、バスケットが自分の中で大きくなりつつあったこのタイミングだけど。今さらスラムダンクだと?!

超ロングラン上映の一番最終日にすべりこんだ。信頼している若き友人の熱烈な推薦もあったので、上映前は懐疑的ではなかったし、フラットな心持ちで臨んだ。

(良い意味で)裏切られた。

予想を遥かに超えてきた。普段アニメにもあまり接してないのも良かったのかもしれないが、そんなバックボーンはすべて吹っ飛ぶほどの、極上のエンターテインメントだった。

原作を超えた、というか、原作に寄り添い、再現しながら、なにか別の凄いものを見せられているような気がした。ホンモノだ。


はじめの試合のシーンでそれを感じる。

ネットで感想をひろうと、原作の大ファンたちが、ここが感激した、、とか泣いた!とか言うこと言ってるんだけど、そんなポイントじゃなく、ホンモノだと言うことにただただ感動していた。正直に言えば、ただのなんてことのない試合の、人間の描写にぐっと来ていた。こらえるのが大変だった。ずーっとジーンとしていた。年寄りの涙もろくなるアレだ。

それは、あのスラムダンクが、とか、かつて漫画で夢中になったキャラクターがということではなく、普段バスケの試合を見ているリアル視点と、スラムダンクのキャラクターが動いているというアニメ視点が、一致していたというか自然に観れることの作り込みのすごさ。アニメだからとか、映画だからとか言う言い訳は一切なくて、ああ、本物のバスケが目の前で繰り広げられている。それが、かつて熱く漫画で読んだ、湘北VS山王戦だという事実!

小説の映画化とか、漫画のアニメ化っていうのはだいたい原作を超えないのが多い。なぜなら、僕らは想像力で文字を読む。その想像力は個人個人違っていて、自分の中でなんぼでも膨らますことができ、それが、映画化、アニメ化されたときにがっかりするのだと思う。自分の想像力に負ける。

それが、このTHE FIRST SLAM DANKは、原作を超えるどころか、原作に寄り添いながら、凌駕し、また原作を読みたいと思わせるような絶妙なところをついてくるのだ。あ、このシーン原作はどうだったかなと確認したくなる。

もちろん映画だけでも成り立つし、何度も繰り返し見たくなるのだけど、さらに組み合わせて見たくなる。

井上氏も言っておられたが、同じ根っこから生まれた違う木だと。漫画と映画。

これはすごいものを見せられた。これを見るために人生が仕組まれていたとしたら、この圧倒的なホンモノから私たちは、私は何を受け取ればよいのか。

(受け取ったものは)簡単にこれなのだとわからないところがいい。でもたしかに何かを受け取った。

それぞれの人によっていろんなモノを受け取ったことだろう。ホンモノとはそういうものだ。それをどう昇華していくか。個人に突きつけられたものは大きい。

何十年も前にスラムダンクが流行っているおかげで中学校のバスケ部の人気がすごいという時期があったことを思い出す。

何より、日本バスケットボールの礎となったであろうこの漫画が連載から二十年たち、アニメとして生まれ変わった以上の輝きを持って我々の前に現れ、またこの映画を観てバスケットボールで育つ子どもたちが生まれる、という循環の輪が見えること。

今回のオリンピックの主力世代はまさしくスラムダンクの影響を受けていることだろう。影響というのは親がいいなと思って子どもに伝えるケースのほうが本人が直接見るより強いと思っている。

アニメとゲームが日本の誇れる文化、と言われて久しいけれど、アニメから遠い生活の自分にはどこか空々しく感じていた。しかし、こういう良質なものを魅せられると、それも本当なのかもと思わさざるを得ない。

今回は宮城リョータストーリーとして魅せていたけれど、おそらく、誰を掘り下げてもドラマとして成り立つし、山王が主役でも感動するストーリーになるだろうと想像がつく。つまり、みんなが主役になってもいいように描かれているからこそ、物語の深みというか奥行きが感じられるのだろうと思う。現実の社会と一緒だ。


ただ、スラムダンクも知らない、バスケットボールも興味ない、という相方さんが映画を観た感想としては、「長い」の一言だったが、あくまでポジティブに捉えたら、そんな人間でも映画館に足を運んでしまう「熱」があるということだ。観てもいいかなと思わせてしまうなにか。井上氏の「伝えたい」がただしく伝わっているように思う。

伝えることに妥協しなかった結果がこれだと見せられると、考えざるを得ない。日々、伝えていたと思っていたことは、全然甘かった。

クリエイターでも物書きでもない自分でも、そう感じてしまうなにか。


さて、草刈りでもしてきます。長いトンネルを抜けたような気持ちでもある。


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