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孤独な時間がひとを豊かにする
人とあい、話し、分かり合う、または違う考えに触れる。そしてまた一人の世界に。
人と会うのは答え合わせのようなもので、一人の世界で考えたことを他人を通じてさらに深めたり、他人にぶつけて本質を知ることだったり、比較して、自分を知ることだったり。
よく、人と比べるなというけれど、自分を知るために人と比べるのはいいことだと思う。何に喜びを感じるのか。何が今楽しいのか。
ただ、大いなるベースに、孤独な
the first slamdank
書かざるを得ない案件ができた。
スラムダンク。そして、バスケットボールのこと。
わたしは実は中学生の時にバスケットボール部に入っていた。ポジションはガードだが、私より背の低いメンバーが二人いたので、実はSGとかSFだったのだろうけど、当時はそんなポジション制ではなかったような気がするし、(ゾーンプレスとかマンツーマンディフェンスはあった)頭でプレイしようにも情報が少なすぎた。ただただ愚直に個人
苦しいときほど吐き出すチャンス
この世は陰陽。振れ幅が大きいほど、生きていて気持ち良いのかもしれない。
陰極まって陽に転じる。
苦しいときほど、その苦しみを表現する。
そんなことしたくないから苦しいのだけど、その苦しみを分解して、他者に差し出すことで、そこから脱するヒントになり、前に進める。
自然の力。
苦しみが深いほど、喜びも深い。
だから、苦しむことを恐れないで、大いに苦しむ。苦しむことを楽しむ。
ブツブツ交換はなぜ気持ちがいいのだろうかメモ
気持ちいいのは言葉じゃない。ダイレクトに心に響くから気持ちがいい。言葉で説明しないから気持ちがいい。頭に言葉が浮かぶ前に心が動かされているのだ。
それと同じで、わたしたちは便利さを追い求め、変換、交換をするようになった。代表的なものがお金だ。わたしも消費だけしているときには気づかなかったのだが、その世界を捨てて、つくることをはじめたときに、お金に変換することがとてもバカらしく感じることがあった。
ググるは会話の愉しみも奪うのか。
会話はキャッチボールだなんて言葉のように、人との会話にはなにか特別なものがあるように思う。特に直接あってお互いの顔を見ながら対話をすること。その人のこまかい表情や仕草なども含めて、感じる、感じてもらう、のやり取り。同じ言葉を発しても伝わる人と伝わらない人の違い。
いま、ネットの社会になり、コロナの洗礼を経て、直接対面しないことが多くなった。先日会った大学生なんて、入学してからオンラインばかりで(
細部というきっかけに気づけるかどうかとそれを膨らませられるかどうか。
このことに気づけたことは大きい。
説明してみる。
のんきさんと木の動物を作るとき、はじめはどこからこんなに(動物の足に、胴に、顔に、、、)適した枝を持ってくるのだろうと不思議でならなかったのだが、自分でも懸命に探しているうちに、あるとき、「見える」ことに気づく。
いっぱい動物を作り、いっぱい手足に適した枝を探しているうちに、立っている木や落ちている枝が、あの動物の手に、あの動物の足に見えてくると
必要とされなければ死ぬだけだ
世の中シンプルに生きよう。シンプルイズジャスティス。
本質だけを見続けていけばの満足した人生を送れるはずだ。
好きなことをやり続けよう。
食える食えない、つまり、そのことがお金を生み出してお腹いっぱいになるのか、金にならなくてひもじい思いをするのか、そのことは「好きなことをやる」の外側の話で、結果の話なのである。
まずは好きなことをやれ。
それが結果、世の中に受け入れられずに、腹一杯になれなけれ
何の役に、誰の役に立つのか
黒板五郎さんが亡くなった。言わずとしれた田中邦衛さんのことだ。わたしの中では北の国からの五郎さんとしての時間が実に長すぎて、田中邦衛という役者の方はどこか遠くの人で、黒板五郎さんは親戚の、いや、実の親のような教えをたくさん受けてきたように思う。
若い頃は純のような気持ちで。年をそれなりに重ねたいまはちょっと先を行く先輩を見るような気持ちと。
五郎さんは「ありがとう」という声の届く範囲でいいんだ