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琉球王国と日本

琉球王国とは

南西諸島(沖縄の島々と奄美群島)に約450年間(1429~1879年)琉球王国という琉球王を国王とする王国がありました。

沖縄本島には14世紀前半、北山、中山、南山という3つの王国がありました。この頃を「三山時代」(1322~1429年)といいます。そんな中、首里城を拠点とする中山の尚巴志が1429年に沖縄統一をします。よって琉球王国が誕生します。

琉球王国は東南アジアの品を明(中国)で売るという中継貿易を行い発展してきました。それに、琉球王国は明に臣下であることを認め冊封関係になることで、権力を誇示しようと考えました。

薩摩藩の進軍

しかし、その関係を揺るがす事件が起こります。1609年薩摩藩が3000の兵を琉球に差し向けました。明はその頃、秀吉の朝鮮出兵や満州人の反乱によって力が劣ろえていました。それに、琉球は大きな戦力を持っていなかったことで、薩摩の兵をまえにあっけなく降伏をします。

これにより、琉球は明と日本(薩摩藩)どちらからも支配されることになります。 (この時、奄美群島は薩摩藩になります)

その後、清王朝になってもこのことについては変わりませんでした。

なぜ薩摩は琉球を支配したかったのでしょうか?

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薩摩が琉球を征服した理由のひとつに琉球の貿易の利益が欲しかったことが挙げられます。薩摩藩は財政がひっ迫していました。その財政を立て直すために琉球を支配したかったのです。

ただこの時は、琉球王国という存在は生き残ります。なぜなら、明(清も同様)に貢物を運んだ国王の国としか貿易ができませんでした。薩摩藩の藩主は国王ではないため、資格がなかったのです。だから琉球王国、琉球王ともに、存在を明との貿易のために認められます。

その後、琉球は、島津の監視にあり将軍の代が変わるごとに慶賀使を江戸に送りながらも、清朝に毎年進貢船を派遣したりしていました。

ペリー来航

1853年に琉球にもペリーはやってきました。そして日本と同じ年に琉米修好条約を結びました。これと同じように仏、蘭とも条約を結んでいます。

琉球処分

日本に明治政府が誕生すると、まず明治政府は日本の国境を確定させなければならなくなりました。この時、琉球の地は清と日本で揉めることになります。そこで、琉球を支配したい日本は1872年に琉球王国を琉球藩とし、琉球王を尚泰を琉球藩の藩王となり、1879年には軍隊を派遣し、首里城から尚泰を追放します。よって、琉球王国は滅亡します。

筆者の気持ち

琉球王国は日本の巨大な軍事力によって支配された過去があることがわっかった。もともと琉球は日本と中国に挟まれ、2つの国に支配されながらも独立を守る琉球は厳しい立ち位置におり、この状況を打開策はなかったと思える。

<参考資料>

                    (2020年8月1日閲覧)