努力のいかなる〝結果〟をも受けとめる力を磨く
#他力本願のすすめ #水月昭道 #心を軽くする一冊 #羽生結弦 #努力は報われなかった
もし、世間で一番嫌われていると思われる言葉をひとつあげよと言われたら、皆さんならどんな言葉を連想するでしょうか?
僕なら、迷わず「他力本願」と答える……。
恐らくは蛇蝎のごとく嫌われているこの言葉。ですが、実は仏教由来であるとご存知の方はどれくらいおられるでしょうか。
現代人は、この言葉に対して「人の力をあてにして、努力を怠るダメな奴」というような負のイメージを持っているはずです。
とりわけ、「あてにして」という響きのまずさは酷い。誰の心にもとてつもない嫌悪感を生じさせます。
でも、そこは「ちょっと待った」なのです。
〝人をあてにする〟というのは、実は、誤用から生じた意味で、本来は〝仏をあてにする〟という意味と知れば、少しは嫌悪感も和らぐのではないでしょうか。
つまり、「他力本願」という言葉を仏教的な世界観でザクッと表すとすれば、「仏さまの力と、おはたらきを頼りにしてね。人間の手にしている小さな自力では苦しみの解決に間に合わないことが多いからね。だからこそ、皆さんひとりひとりの無事安寧を願って苦しみを取り除き必ず救うべく、仏さまは、はたらいていますよ」といった感じになるでしょうか。
詳しくは、浄土真宗の教義に譲りますのでぜひそちらの専門書なども手に取られてください(本願寺出版から沢山の良書が刊行されてます)。
〔※さて、ここで紹介する書は、仏教の教えそのものや宗派の教義を説くものではありません。そうではなく、自分の力ではどうしようもない出来事に遭遇したとき、〝私〟自身の心をどう落ち着かせることができるのか、そのコツを各自で習得してもらうアイデアが展開されている本です。以下、もう少しだけ話の流れの関係上、「他力本願」という言葉や仏教との関わりについて続けますが、短めに切り上げた後は、本書の本来の味わい方——心を軽くするコツについて触れていきたいと思います〕
僕自身、この「他力本願」という言葉に接する時は、世間での使われ方や意味からまずはちょっと離れてみることを心がけています。なぜなら、それはもともとが俗世を離れ、仏さまのことをお話しする世界の中で語られていた、魅力的かつ綺麗な言葉であるからです。
苦しみや煩悩の溢れる俗世間から距離を置き、そうしたものが一切ない(とされる)世俗とは異なる世界で用いられていたはずの、そんな言葉が有する本質の部分をその世界観そのままに味わってみますと、「仏さまが私たちひとりひとりの無事安寧ために一生懸命に願ってはたらいてくださっている尊いお姿」という、まさに柔らかさに満ちた仏教的な美しい世界観が浮かんでくるのです。
それは、自分の掌の範囲を圧倒的に超越した、外側にある〝他の世界〟から〝苦しみに喘ぐ私〟に向かって差し込まれる(仏の救いの)光の類いとも言えるでしょう。
「必ず救うぞ、我にまかせよ」と、そんな〝仏さまの側〟からかけてくださる(仏さまの立てた)願いと力強いおはたらきが自分に届く(と感じられる)時、「なんとありがたいことか」と、お坊さんとしての僕は自然に感じてしまうのです。
ここからが本題です。言うまでもなく、「言葉」というものは、時代時代において使われ方はもちろんのこと、〝意味〟そのものも大きく変わっていきます。
現代の若者が(良い意味で用いる)「ヤバイ」という表現があります。もとは、「ピンチ・危ない」といった状況を指すもので、決して良い意味ではなかった。
「他力本願」という言葉にも、要はこれと同じようなことが起こっているというわけです。
こちらは「もとは良い言葉」だったのが、いつの間にか「悪い意味」としての誤用が定着してしまいました。
しかし、そもそもの意味に着目してみると、「仏さまが私たち衆生のためにわざわざ願ってくださっている(仏さまの本当の願い、つまり、ご本願)」という意があるわけです。とすれば、俗世においてもいっそ意識的に、そんな自分が住む小さな世界において成そうとついついしがちな自らのはからいを超えた、もっと外側にある大きな〝他〟からの〝(見えない)チカラ(の類いの存在)〟をあてにしてみることで、今の世の閉塞感を破る大きなきっかけにもなれる可能性があるように思えてきませんか。
「私」という小さな存在のはからいを超えた、もっとずっと大きなところからの〝はたらきかけ(のチカラ)〟をこの際意識してみるということです。
それは、「見えないチカラと(私の)ご縁の行方」といったイメージにも連なっていくように僕には思えます。
「他力本願」——まるで「劇薬」のようなこの言葉ですが、しかしそれ故にその本来的な意味のところを押さえながら現代社会の(一般的に捉えられている言葉として)その中に取り込んでみると、二十一世紀に生きる現代人の価値観を大きく揺さぶり、それまでとは異なった視点からの幸せや心の安寧をもたらす〝良薬〟に化ける可能性が十分にあると見込めるのです。
僕がこの言葉をあえてタイトルに用いる〝博打〟を打ったのも、その破壊力に期待をしたからに他なりません。
もうひとつ、隠された意味があります。それは、その破壊力でもって、僕の抱えているこの悩みもいっそ吹き飛ばして欲しいという切なる思いもあったのです。
もろもろの期待を併せ持たされたそんな〝言葉〟を軸に、いやそれこそをあてにして、僕がいよいよ切羽詰まった心持ちで本書執筆のために筆を執ったのは、二〇一二年のことでした。
当時、自分の心の荷物が増えすぎて「何とかしたい」という思いを僕は抱えていました。
読者のなかには、「お坊さんには悩みなど無いんじゃ?」と、訝る方もおられるかもしれません。
ハッキリ言って、悩みがないお坊さんなどおりません。
ただ、どうすればそれを少しでも軽くできるのか、そのコツみたいなものは習得しています。もちろん、仏教の教えそのものに救われることも多くありますが、それだけで全て事足りるというわけでもなく、自分の中で腹にストンと落ちるなにがしかの感覚を得ていくことが常に求められます。
人生のステージそれぞれで悩みの質は変わってくるためです。そのためには、その時々で散々に悩み抜いて、自分が抱える問題と毎回真摯に格闘せねばなりません。
そういう時間を通して自分なりの回答を見つけることでしか、自分の問題をどうにかすることなど出来ないのです。
そこで、その頃の僕は、自分が抱えるその問題について、「そいつを客観的に捉えて解決に導くルートに乗せるためには、この辺でいよいよ自分なりのアウトプットが必要だ」という考えに至っておりました。
つまり、問題そのものに距離を置いて、それを俯瞰的に観察しながら咀嚼してしまおうと考えたわけです。
そこで、本を書こうという気持ちになりました。
一応、類書がないかチェックしましたが、当然ながら100%自分に寄り添ってくれそうな本などというものはなかなかありません。
求めたものは映画のような本でした。一冊を通して読んだ場合に「読後感が“その瞬間”スッキリ」するというもの。
仏教の教えや宗派の教義の範囲にとどまらず、それらを自分の世界観の中に咀嚼することで、己が心が究極に軽くなる物語を欲したのです。
結局、そういったものを見つけることができなかったので、「だったらちょうどいい。このあたりで一発、自分で(自分にとって最高となる一冊——オーダーメイド的な本を)書いてみるか」という決意を込めて筆を執ったものがこの「他力本願のすすめ」(朝日新書)です。
念のために申し上げておきますが、ここで展開されるこの言葉——いわゆる〝他力本願〟とは、特定の宗派やそこでの教義体系において積み重ねられてきた解釈の上に用いられている言葉としてではなく、現代日本における世俗のなかにあって一般人が頭に普通に描くであろう現代日本語としての世界観の中で描き出される場面を想定してその対象として取り上げています。
そうした一般社会のなかで普通に誤用されている——人の力をあてにする、という意味からまずは離れてみるものの見方を示すことを試みました。世間が好んで批判的文脈で使いたがる〝他力本願〟とは、決して本来は、「他人の力をあてにしたフリーライダー」などといった悪い意味ではないのです。
そうではなく、自力の範疇にない出来事に遭遇した時——たとえば、新型コロナウイルスに悩まされる今の状況などですが、それを、「自力」の対極にある「他力(つまり余所から勝手にやってくる影響や力)」と位置づけることで、そうしたものをどう受け入れて・どううまく付き合っていったらいいのか、ということを考えるキーワードとして位置づけられる非常に可能性を秘めた言葉なのです。
すでに、古来より用いられていた場面や意味が現代社会では180度変わってしまったその言葉ですが、だからこそ今もっとも見つめ直したいもののひとつでもあり、現代におけるこの閉塞感を破る可能性を秘める言葉でもあるのです。
あくまでも本書は自分に向けたものなのですが、もし僅かでもこうした取り組みが他の誰かの役にたてるなら、それほど素晴らしいことはないではないか、という思いもどこかにあります。
ともあれ、そんな本書ではありますが、ではそこには一体どんな世界観が展開されているのかを、あと少しだけご紹介したいと思います。
まず、本書では何度もキーワードが出てきます。「他力」という言葉です。その位置づけについて整理をしておきます。
ここでの「他力」とは、いわゆる「自力」のコントロール範囲を超えたところから、つまり自力のまったく及ばない〝あちら〟の側から勝手にやって来るチカラ(影響)をイメージしています。五木寛之さんが大竹しのぶさんとの対談のなかで、これをわかりやすい言葉で語ってくれています。
今でいうなら、新型コロナウイルスはまさにそれに該当します。ここでも、五木寛之さんは、「思いがけない大きな力が転機になって世界は変わっていく」、というように表現をなされています。
さて、ここでちょっと気をつけておきたいのですが、これは——自分の掌の上から離れた思いがけない大きな力とは、別に悪いモノとは限らないのです。
なぜなら、「宝くじが当たった」というのも実は同じ構図の中にあるからです。
くじは〝当てる〟ものではなく、〝当たる〟ものですよね。
同様に、「アイデアが降ってくる」という表現もあります。
アイデアは、自力で作り出すというよりも、どこかからかふとやってくるものです。
要するに、自力の範疇を超えたチカラがそこに〝はたらいた〟ということでしょう。
ですから、ここで言う「他力」というのは、繰り返しますが、自分の掌の上から離れたところから自分へ影響を及ぼしてくるチカラ、というようなイメージで捉えてみて欲しいのです。
私たちは、自らの人生を切り開こうとする時に、とかく「自力」での努力により達成しようと試みます。現実には、それが成功することもあれば、そうはならない——思った通りにならないこともまた少なくないわけです。
その場合、当たり前ですが、がっかりしてしまいます。(以下の図は、上が小学校の時点から私たちが叩き込まれる価値観で、下図は「現実はこうだ」というものを表しています)
しかし、そもそも長い人生においては、そんな「自力」の範囲でなんとかなる程度の(受験勉強のような)ものごとと、一方で、逆にどうにもならないというもの(病気や災害など)も、やはりまたあるのではないでしょうか。
そして、いざ後者に直面すると、私たちは心ない非難など——自力での努力をする余地が残っていたのではないかなどと——を浴びることが少なくないために、悩み傷つきとまどうことになります。
夢破れた時や就活の失敗、失恋に離婚にリストラ、会社の倒産、老いる家族の介護、家族同様の大事なペットを亡くした時の喪失感なども全てはこの延長線上にあります。その上、このコロナ禍です。もう本当に挙げはじめると(自力がほとんど及ばない出来事というのは)きりが無いほどです。
すると、人生というものは、計画的に進むよりも(もちろんそうしたいのはやまやまですが)、そうならない場合のほうが普通に思えて仕方ありません。
ならば、人生の大半は、「かなりの部分が偶然や想定外の出来事に左右される時間を過ごすことになる」、ということです。
「人生には三つの坂がある。曰く、上り坂、下り坂、まさか、です」、とは使い古された言葉ですが、〝まさか〟に遭遇することは、良い悪いは別にして意外にも結構あるようです。
だとすれば、そのような〝他〟からもたらされる〝まさか〟については、そしてもし、それが特に好ましくない場合のそれであれば、なおのことそれと対峙するというよりも、むしろ柔道や合気道のような「受け身」の作法のようなものが必要となるはずです。
本書は、その〝受け身の技〟を磨くことを意図するものです。
人生とは、辛く苦しいことの連続です。
「自力」の範疇を離れたところにあるチカラが、私たちに何かしらの思わぬ影響をいつも及ぼしているからでしょう。それは、思い通りにならない苦しさ、とも言い替えられます。
そうした、思い通りにならないことや、時に残念な気持ちまでをもたらしてしまうそんなチカラと、どううまく付き合っていったらいいのかという〝受け身の技〟を知らなければ、この苦しみから逃れる術はありません。
つまり、「他力」とは何なのか、という本質を知り、自分の影響の範囲外にあるチカラとの上手な付き合い方を身につけずして、人生の苦しみや悩みをどうこうすることは難しいということです。
本書は、「ひとりひとりにあう〝受け身の技〟を身につけていただく」ことを願って認められました。
「見えないチカラと自分のご縁の行方」について、本書が何かしらの視点を深める一冊となればまことに幸いに存じます。
もしサポート頂けたにゃら次の記事を書く励みになりますにゃ。少しの鰹節と猫や皆が幸せになる布施行にもあてさせていただきますのにゃ。