雨の中で僕は  【「さよならを教えて」同人誌への寄稿文】

【はじめに】
 これはアダルトゲーム「さよならを教えて~commont dire adeu~」ファン同人誌、甚だ夜に様主催「夕焼けは夜に染まりさよならの続きを、もう一度」への寄稿文をnote向けに加筆修正を加えたものになります。
「さよならを教えて~commont die adeu~」20周年おめでとうございます。

雨の中で僕は       来夢来人

さて、どこに行こうか?

1999年の奇跡と対をなす2001年の新世紀に起こったもう一つの奇跡、たぶん1995年の新世紀のやり直し。

さて初めに私は告白をしなければいけない、私はこの さよなら ができなかった私達とともにこの場所にいる。
初めに私は告白をしなければいけない、
初めに私は告白をしなければいけない、私は このさよならができなかった我々とともにこの場所にいる。

私にはさよならができない。
ここにいる私たちは僅かながらさよならを期待しそしてさよならを告げられずさよならにすがっている。

しかしわたしはさよならができない。
わたしは彼女たちに対して名残惜しいわけではなく、もっと単純な事由でさよならを告げられず、そもそも私は彼女たちに出会った事すらない。

その校舎に訪れた事はない。
屋上の烏にも図書室の標本にゴミ捨て場の人形も、中庭の猫も教室の天使も保健室さえも、それはまだ私の幻覚に妄想に過ぎないのでしょうか?


教育実習生人見広介、その物語の主人公に私を重ね合わせることはできない。
彼の生み出した一大パノラマをこの肉眼で見たことはない、その狂気に妄想に汚濁のように横たわる彼のパラノイア。
それに対してこの身が侵されると怖じ気ついたといえばそれまでなのだろうが、この妄想を当時の私にはそれに耐えられるとタカをくくるくらいには深淵を気軽に覗き込む事は厭わなかった、若さとも言い換えれるでしょう。

これは救済の言葉を恐れ一人敗走者、愚かな私の僅かばかりの信仰告白である。
あるいは無残にも向き合えなかった巡礼の記録にだろうか。

そう彼女こそ私たちの畏敬する天使様のはずなのだから。


私がこの狂気を知ったのははっきりと記憶しているわけではない、マイブームだった夢野久作を辿っていたときだったか、エロゲーを追いかけていたときだったか、アイマス春香のニコニコ動画だったか、I'veだったか...。
いずれにせよ、その名前を含め断片的な情報をかき集めていた。
やがてゼロ年代後半に現れたさよならできなかった我々のコミューン、ファンサイト「さよなら教」にたどり着いた事ははっきりと覚えている。
出会えもしないから別れも告げられない我々の駆け込み寺、シェルター。

純白のHP内に大きく現れた脳みその中にあの5人が封じられている画像、それぞれの教室、細部は既におぼろげだが、正常でいられなかった私達はさよならすら与えられるなかった私達は少なくとも私は貪った。
諸兄方はご理解されるているだろうが、ゼロ年代後半といえども半ば伝説化し、電波の三巨塔の一角として「さよならを教えて」はそびえ立っていた、頂上に上履きを揃えられない私達は今以上に存在していた。
そんな一つ夕暮れ時に権現した福音、衆生済度の救世主、天使。

その教団を起点としいつさよならを受けとてるように、識ることを始めた、天使の再臨を夢見て救済を求めて審判の日を待つ敬虔な信徒のように、教えに焦がれた。

設定資料集という名の福音書、暗唱できるほど読み込んだ、宇宙は薔薇の形をしているらしい。
清浄にして混沌、さっぽろももこ氏の過去、個人制作楽曲も聴き漁った、山のあなたのなお遠く。
タイトルの元ネタは戸川純の同名タイトルと知り、代表曲はだいたい覚えた。
しかし元ネタはフランスの曲でフランソワーズ・アルディ、しかし更にその元ネタがある。

別の天使に救済を求めた事もあるがタイトルの通り天使ぢゃなかった、聖母だった。
もちろんあがた森魚まで辿った。
一時期はさっぽろももこの方が気になり、手に入る範囲で関わりのあるゲームは大体プレイしたこともある。
もちろんメタゲーまで手を伸ばしトリガーを引いた。

星の彼方のなお遠く、源流を辿る巡礼を続け、さよならを求め流浪を続けた、外堀を埋めるよう、私の中でさよならの教義を授かる聖堂が徐々に形作られていく、中央に安置されるべきシンボルも無く、天使と出会った由緒があるわけでもなく出来上がるものは仰々しく些末な細部に拘ったグロテスクなバロック式サブカル大伽藍であった。
ほらそこに召喚円があるだろう、山手線から猫やカラスを召喚するんだ。
この頃には私にとってただのカルトゲーを通り越し一つの意地となっていたのではないか。
必ずこの目で天使の降臨を目の当たりにしさよならを教えてもらうために伽藍を守り作り上げるものと信じていたと思う。

動画サイトではあの校舎が現れ、人見広介として少女たちと邂逅を果たしていた、一方でエンケリュスも攻めてきていた、ともいう私も邂逅は果たしたがきっと別れが辛かったのか未練がましかったのか、すぐに学校に通わなくなった、私は出不精でコミュ障である社会不適合者、相手が少女、天使ならならばなおさらだ。
それから何年か経ったのか、天使が再臨する機会が恵まれた、ブルーレイディスクによる高解像度で蘇る機会を経て、またお手元のスマートフォンによる電波を使用し天使が手元にやってくる時代になった。

それでもなお私はさよならを忌避しているきらいがある。

伽藍の聖堂を築き、さよならを忌避し、それでもなおさよならを期待している。
教典にあたらず、それでも教えを請い、それを熱心に信仰している狂信者風情である。

私はきっといつの日か約束の日審判を待ち、はるか上空からの肉細工のような天使の降臨を待ちわびているのでしょう。

-分かっている、終わった恋にもうチャンスはないから、だからもう少しましな言い訳を-

あのさよならを教えてとは何だったのか?
巣鴨美月とは何だったのか。
あの校舎とは?

-だけど無にもなれずに 無明をさまよう 歪んだ肉 -

部屋中に張られた天使の写真、パソコンでお手元のスマートフォンで天使の動向を逐次確認監視するようなストーカー地味た陰湿な行為、私は彼女のことを知っているのだろうが、彼女は私を知らない。

-私は待っているわ、愛してくれるまで-

それはひと時の気の迷いなのか、あの作品は私に大きな福音を与えた、それこそ人生を変えてしまうほど、一番救いを欲した時に無く。
口にすれば手軽に欲せるはずなのに、しかし原典に対し神々しく醜悪な物語に畏怖を込め、未だに手に取る事はできない。

-私の心はパイレックス、もう火がつかない-

天使にすがりさよならを唱えつつ、数々の信仰者の中に紛れ、その福音を奇跡体験を分かち合うふりをしている。
信仰を試される踏み絵を気軽に踏み抜く、軽快なステップで。
物語に向かい踏み出す勇気もなく、ためらって。

-何もできず呆然と僕は眺めていた-

これは信仰告白である、
救済の言葉を恐れ一人敗走者、愚かな私の信仰告白である。
あるいは無残にも天使にもさよならと向き合えなかった背教者の記録。

-君の唇はさよならの形を描いてこわばる-


来夢来人 

 

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