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便太郎の8月12日

2015年8月12日 便太郎一家は天津大爆発で被災した。
爆心地から直線距離で1.5キロ の場所に住んでいた。

寝ようと思ったら窓の外。
遠くで火事が見えた 。
119へ電話すると、
「既に消防が向かっているから大丈夫です」
とオペレーターは言う。
いつ消えるの?
なかなか消えないな?
むしろ少しずつ拡大している。
気になってなかなか寝れない。
窓越しにぷすぷすと燻る煙を眺めながら、
全然消えないな…と思っていたら。

いきなりドッカーン!

(爆発したりしてと内心、思っていたら案の定…)

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え?

その30秒後

ゴゴゴごごぼぼボボがががガガガガーーーン!

(ええええ?ミサイル?戦争?まじか?)

火柱が目の前に迫ってきた。
今まで経験したことない音。
1回目の爆発も初めて経験する大爆発で、
かなりビビったが、想定内というか、
想像の範疇内だった。
2回目の爆発は想像をはるかに超えてた超大爆発で、
1回目のレベルを遥かに超えていた。

嗚呼。これは死ぬかも。
2回目の爆発時、死を意識した。
ここにいてはダメだと直感した。
左手で寝ている子供を枕ごと抱きかかえ、
右手で当時飼ってた犬を抱きかかえ、
トイレに逃げるか?
外へ逃げるか?
嫁はリビングに茫然と立ち尽くしている。
「おい逃げるぞ」と叫び 玄関の扉を開けた瞬間、
爆風で吹っ飛ばされた。

あの時トイレに逃げていれば…
今でも後悔している。

爆風で2,3回転し、ゴロゴロゴロゴロ~!
(実際は何回転したか分からんが)
エレベーターホールまで吹っ飛ばされた。
その勢いのまま、 非常階段を駆け下り下りた。
各階から外へ逃げようと大勢の人が殺到した。
目の前に老人がいた。
「慌てるな」
「ゆっくりでいい!」
そう言いながら速足で階段を降りる。
幸い将棋倒しになるような事は無かった。

近隣住民も次々と、外へ出ていて凄い人。
辺り一面ガラスの破片。
看板は落下し周辺のありとあらゆる窓が割れている。
嫁はパニック状態で 、また爆発するかも知れない、
ここから離れようと喚き散らしていた。
きのみきのまま、あるのは枕のみ…
(寝ている子供を枕ごと抱きかかえて逃げたのだ)

アレ? 犬が居ない?

とにかく嫁は、
「逃げよう!逃げよう!」
しか言わない。
犬は後で探しに行けばいいから今は逃げよう!
子供は訳も分からずキョトンとしている。
ガラスの破片をよけながら歩いて、遠くへ向かう 。
道路は車で逃げる人で大渋滞。
歩き疲れてベンチに座り込む。

お前の足どうした? と私。
お前の顔どうした? と嫁。

嫁は裸足だった為 、ガラスで足を切り血まみれだった。
私の左頬はボコっと腫れていた。
アレ? 子供の後頭部に握り拳くらいの大きさの、
漫画に描かれているようなタンコブが…
額も少し腫れていた。
左手で抱えていた為 、玄関の扉を開けた瞬間 、
爆風で飛ばされ 、扉と私の左頬に挟まれるようにぶつけたのだ。

それを見た嫁は更にパニックに…
私はというと、
「マジでこんなタンコブできるんだ?」
あまりにも漫画みたいで、
思わず吹き出してしまった!
これがまずかった…

「何笑ってんだよ!」
「なんとかしろよ!」
「死んだらどうするんだよ!」
と嫁大激怒 !
いったんお金取りに帰ると言うと、
「危ないからダメ!」
とまた激怒。

嫁大爆発である。

文無しでどうしろと?
自分で考えろ!
と無茶苦茶な嫁…

ん~
はっちゃけはっちゃけ~
はっちぇけはっちゃけ~
はっちゃけた!!!

「すいませ〜ん 」
「なんか〜 今この近所で〜 爆発あって〜」
「逃げて来たんですけど〜 」
ってお声がけを開始。
「何があった?地震?」
「いえいえ爆発ですよ!大爆発です!」
「一部始終見てました!」
「また爆発するかも知れないので逃げた方がいいっすよ!」
とかなんとか話しして1人目で10元ゲットした。
その後、入口のガラス割れ、店内もめちゃくちゃな便利店で、
水購入し嫁の足洗って、枕カバーで包帯つくって応急処置。

いや〜非常時の枕って、
やっぱり役に立つな~って実感した!
更にお声がけを継続 し、サンダルを恵んでもらい 、
近くの病院まで乗せて貰った。
病院手前で大渋滞!
ボンネットが凹んだ車や、
フロントガラスが無い車もチラホラある。
全然動く気配無いので、
ここから徒歩で病院へ向かった。
病院の外で看護師が 、
「この病院は軽症者の受け入れはしてません!」
「他の〇〇病院か✕✕病院へ行って下さい!」

と叫んでる。

病院へは入れず門前払い。
まー仕方ないよね。
とにかく負傷者が多くて野戦病院みたいだったし、
血まみれの人が何人か路肩に座り込んでたし、
こりゃ無理だと思った。

そんでもって、
病院で診てもらおうとする怪我人が、
敷地内に入ろうとするのをさばいている看護師が凄かった。

「この怪我は命に別状無い!他の病院へ行け!
鬼の形相で怒鳴っている。
「着の身着のままで出てきてお金無いんです」
「そんなの自分で何とかしろ!」
「この非常事態が見えないのか?」
血まみれの人にも容赦無い…

ここで嫁が携帯持っている事に気が付いた。
ナイス嫁!
しかーし!
残すところバッテリー残量3%…
ちゃんと充電しとけよ嫁よ…

とにかく嫁の友人に片っ端から電話して助けを求めた。
幸運にも 友人の1人が夜中にも関わらず迎えに来てくれた。
現金2000元と水を準備してくれて、
それを持って他の病院まで送ってくれた。
本当に感謝しかない。

しかし… この病院が凄かった…
中に入ると 全身血まみれ、もしくは黒焦げの人,人,人,人
看護婦が血まみれの人に次々と頭から消毒液をぶっかけている。
床は、消毒液と血液が混じってびしょびしょに濡れている。
清掃している人がいるが、全く追いついていない。
まさに地獄絵図…

血まみれの人を掻き分け、受付を済ませ、
滑ってコケ無いように小児科へ向かう。
医者に子供のタンコブ見せたら、
念の為CT撮る事になった。
沢山の負傷者で溢れている中、
怪我人を掻き分け進んで行く 。
亡くなったであろう方が、
少なくとも20名以上は目の前に横たわり、 泣き崩れる家族 。
大混乱の医療現場。
貰い泣きしながらCTの順番待ち。
次々に運ばれてくる血の気の無い人達。
港湾労働者が多い。

ドリフのコントに出てきそうな 、
頭チリチリで真っ黒に煤で汚れた青年が、
お先にどうぞとCTの順番を譲ってくれたが、
丁重にお断りした。その直後、
オバちゃんが割り込んで先に部屋へ入って行った…
その後、重傷者が次々と運び込まれ、
軽傷者はなかなか順番が回って来ない。
結局CTを撮り終えたのは3時だった。

病院の大混乱はまだ続いている。
周りで次々に息を引きとっていくあまりにも衝撃的な光景。
CT写真を持って、怪我人を掻き分け、
再度医者の所へ向かう。
「ここでは観れないから市内の病院へ行け!」
と言われタクシーで向かった。

この時まだ何が起こったのか誰も理解していなかった。
ただ何かが爆発した。
分かっているのはそれだけだった。

タクシーの運転手も何も知らなかった。
ただ爆発事故があった。
知っているのはそれだけ。
私も同じ。
ただ目の前で大爆発が起こった。
恐らく大勢の人が亡くなった 。
これしか知らない。
タクシーの運転手は代金を受け取らなかった。
素直に感謝し好意に甘えた。

紹介された病院は小さな診療所だった。
爆発事故の負傷者がこの小さな診療所にも10名ほど収容されていた。
医者は子供のタンコブとCT写真を見て、
患部を冷やし1時間様子を見ると言う。
氷がないので看護婦さんの昼食の残りを凍らせた、
肉まんでタンコブを冷やした。
腫れは全然ひかないが、痛みは無いようだ。
子供はおとなしく寝ている。

病室から啜り泣きが聞こえる。
心拍数の機械音が心停止した事を告げている。
慌ただしく何かしている物音。
名前を叫ぶ母親であろう女性の叫ぶ声。
ドラマで何度も見た光景。
そのままの音声が病院から聞こえる。
亡くなったのは20歳の港湾労働者だそうだ。
勤務して2日目だった…。

子供のタンコブの経過観察中に、
この診療所で3名が息を引きとった。
常に誰かの叫び声と鳴き声を聞き続けた。
心臓が締めつけられるような叫び声である。
嫁はそれを聞いてずっと啜り泣いている。
「もう大丈夫だから帰っても良いですよ」
医者にそういわれ、
診療所を出て開発区へ戻るタクシーを捕まえた。
朝8時を回っていた。
さてこれからどうしよう?

残り少ないバッテリーの嫁の携帯で会社へ連絡。
会社の電話番号を暗記していた自分に驚いた。

会社には、しばらく出勤出来ない旨伝えた。
とりあえず家に行くわけにもいかないので、
当時子供が通っていた保育園に向かった。

保育園は、通常通り営業しており、
園児や家族に怪我人は居なかったらしい。
園長先生が、ニュースでは化学工場が爆発し
9名が亡くなったと伝えていたと教えてくれた。
少なくとも20名以上が無くなってるのをこの目で見たけどね。
ま~ニュースの第一報はどこの国もそんなもんだ。

嫁と子供を保育園に残し、
荷物を取りに部屋へ向かう 。
爆心地から半径2キロの範囲は、
既に立ち入り禁止区域に指定されていた。
タクシーを途中で降り徒歩で向かった。

検問所で名前と住所と携帯番号と、
パスポート番号を記入して立ち入りを許可される。
マンション付近で逸れた犬を探して歩き回るも発見出来ず…
いつものお散歩コースを回るも全然見つからない。
絶対まだ生きているはず。
犬の捜索はいったん打ち切り部屋へ向かう。

マンションの守衛が入り口に待機している。
これなら火事場泥棒は無いなと思った。
「上からガラスが落ちてくるぞ!」
「建物のそばを歩くな!」
「荷物を取ったらすぐに退去するように!」

とトラメガで怒鳴ってる。
私以外に全部で20人くらい荷物を取りに来ていた。
あたり一面ガラスの破片。
3台中2台のエレベーターが落下していた。
階段の非常扉はありえないくらい変形していた。

階段を登り、汗だくになり、
私の部屋の階にたどり着いた。
私の後ろから階段を登っていた住民が、
ポツリと一言
「良かったね 低い階で。」
嫌味に聞こえない。
逆に気の毒に思えた。
彼の部屋は36階。
まだ倍以上あるのか…
「ご家族は全員無事ですか?」
そんなやりとりを交わす。
初対面だが妙に親近感を覚えた。

部屋に戻ると、
部屋の扉に布団が挟まって、開けっぱなしの状態だった。
逃げる時、子供と枕と掛けていた布団ごと抱きかかえたのだろう。
扉を開けた瞬間に爆風で吹っ飛ばされて、
布団だけが扉の所に残されていた。
布団を取って中に入り、 扉を閉めようとしたが閉まらない。
かなり頑丈な扉だが変形していた。
子供がここに後頭部をぶつけたのだ。
入って左手にトイレ あの時こっちへ逃げていたら…
誰も怪我せず犬もここにいたはず。
一気に後悔の念が込み上げる。

部屋には5箇所の窓がある 。
2箇所の窓ガラスが割れ、 部屋はガラスまみれ。
3箇所の窓は開いていた。
エアコンが付けっぱなしだった為 、部屋は意外に涼しい。
携帯には大量の不在着信があったが、
折り返す気にはなれず無視した。
窓の向こうには爆発現場がまだ燻っているのが見える。
ヘリも沢山飛んでいた。

適当に着替えとかスーツケースに詰め込む。
また階段を降りて運ぶのを思うと、
とりあえずスーツケース1個と、
ボストンバッグ1個にまとめた。
さて行くか。
アレ?扉が閉まらない。
閉まるが施錠出来ない…
仕方なくそのままにして部屋を出た。

周辺のマンション窓ガラスが割れてとにかくガラスだらけだった
部屋も割れたガラスでめちゃくちゃ
爆心地から半径2キロ圏内は完全封鎖

スーツケースをゴロゴロと引きずりながら、
もう一度何時ものお散歩コースを周り、
犬を探すが見つからない…
呼べばアホみたいに飛んでくるはずなのに…
マンションの守衛に100元渡して、
それらしい犬を見つけたら連絡するのと、
毎日ソーセージをマンションの入り口に、
1本づつ皮剥いて置いてくれとお願いした。
絶対にこの近くにいるはずだから。

私と同様に一時帰宅で荷物を取りに来た人。
職場が被災し実家に帰る農民工など。
みな荷物を抱えスーツケースを、
ゴロゴロ引きずり歩いている。
立ち入り禁止区域を出てもタクシーは少なく、
バスもいつくるかわからない。
引き続き歩くしかないのだ。
そんな時、

「おーい どこまで行くんだ? 乗れよ!」

と声かけられた。
よく見ると荷物を持った人が 、
次々に一般車両に乗り込んで行く。
私が嫁と子供がいる保育園の住所を告げると、
荷物を積み込み、また他の人に声をかける。
乗れるだけ乗せると順番に目的地まで送ってくれた。
彼らは一般人の走り屋チームらしかった。
ボランティアで被災者の輸送を行っていた。

運転手が言う。
生まれて初めて経験する大事故で、
いてもたってもいられず、
地元の為に朝から被災者の輸送をしていると言う。
ウェイシンでどこどこにまだ何人くらい歩いているから、
空いている人は向かってくれと、
ボイスチャットで情報共有していた。
やりとりを聞いていて思った。
なんとう言う統率力!

ただの一般人とは思えないくらい組織的に無駄無く動いてる。
ヤクザか?
実際の所はわからないが、
阪神淡路大震災の時も真っ先に炊き出しとか、
行動を起こしたのは日本の反社だったと言う記事を思い出し、
(ちょっと記憶があやふやですが…)
直感的にそんなふうに思えたが事実は不明である。

運転手が聞く
「お前の出身は何処だ?」
「日本」
「そうか この大惨事に中国も日本も関係ねーよな」
「頑張れよ」

そう言われ目的地で降り別れた。
正直なんか感動した。

美化する訳では無い。
これは紛れも無い事実である。

保育園に着き嫁と子供と合流。
避難所で無料ホテルの手続きが出来ると聞き、
子供は保育園に預けたまま、嫁と避難所へ向かった。

避難所はうちの近くの小学校で、
立ち入り禁止区域の2キロ以外だったが、
ちょうど2キロくらいの距離で、
爆心地から上がる煙が見えた。

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入り口は凄い人でごった返していた。
中へ入り登録の長い行列に並ぶ。
登録後に待機場所で連絡を待てと言われた。
待機場所と言っても教室である。
中へ入ると30〜40名くらい雑魚寝していた。
とりあえず地べたへ座り休憩。
なんか疲れが一気にどっと出た。
時間は15時を回っていた。

グランドに次々と仮設テントが立てられていく

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この避難した小学校は、
6年後に新型コロナのPCR検査会場となるのだが、
そんな事は知る由も無く…
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配給されたKFCのハンバーガーを食らう。
ホテルの割り振りが決まった人から、
マイクロバスに乗り込み宿泊先へ移動する。
宿泊先が決まらない場合は、
ここに宿泊する事になるらしい…
マジか…
くそ暑いしそれだけは勘弁だな…

爆心地はまだ燻っており、煙が見える。
ヘリコプターもバタバタと飛んでいる。
嫁は、怖い怖いと怯えている。
ここに居るのは嫌だと言っていう事を聞かない。
自宅から徒歩10分ほどの距離。
避難所だが爆心地から2.5キロくらいだろうか。
気持ちは分らんでもない。

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外資系企業に勤めている知り合いは、
開発区から即撤退命令がでて、
天津市内のホテルへ避難したという。
お前も、今すぐ市内へ行った方がいい。
まだ爆発の危険があるらしいと言っていた。
開発区のホテルは被災者の受け入れの為、
一般の宿泊が出来ない状況が殆どで、
普通に予約が出来ない。
しかもまだ、爆発事故の全体像が見えておらず、
とにかくいろいろな情報が錯綜していた。

一体この先…

どうなるの?

そんな時、会社から連絡があった。
契約しているホテルの部屋を1週間確保したから、
今から行けと!
助かった~!

早速、子供を保育園に迎えに行き、
ホテルに向かいチェックインし、
ようやく一息つくことが出来た。

消防署の近くにあるこのホテル。
この爆発で、多くの消防隊員が犠牲になっており、
その家族が宿泊していたのである。
もうね…
いろいろな部屋から、廊下から、ロビーから、
叫び声や、すすり泣きが聞こえてきて、
いたたまれない気持ちで宿泊していた。

病院での惨状を目撃した影響もあり、
この環境に嫁が精神的に参っていしまい。
毎日もらい泣きしながら寝込んでしまった。
1週間に滞在しても立ち入り禁止が解除される事は無かった。
徐々に爆発の原因や状況が明らかになっていく。

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ここでは、それについては触れない。
興味がある方はネットで検索すると、
当時の映像などと合わせて出てくると思う。
諸説いろいろ言われているが、
当時の現場では人々はショックを受けながらも、
助け合いながら乗り越えようとしていた。
そうではないいろいろな事もあったと思う。
なので今回は憶測なし、見たままのみを書いた。
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結局その後、他の場所へ引っ越し、
自宅に戻れたのは翌年の春節前だった。

嫁はこの時受けた精神的ショックで、
起き上がれなくなった。
いろいろな病院に行ったが、状況は良くならなかった。
今でも完璧に治っていない。
だいぶましになったけどね。
その辺の話は【うちの嫁さま】シリーズで、
ネタにしていこうと思う。

この時を境にして便太郎一家の状況は一変した。
もうこうなってしまったもんは仕方ない。
あるがままを受け止め生きて行くしかないのである。
ま~あんま気にしてないけどね~

人生谷あり谷あり、そしてまた谷ありです。
それでも歯を食いしばって強がって、
平気な振りして鼻歌歌いながら生きていると少しは楽しい事もあるし、やっぱ嫌な事もある。

がはは!

最後に余談ですが、この時はぐれたうちの犬は、
爆発から9ヵ月後無事に戻って来たのでした。
まさに奇跡。
そして、その犬も昨年15歳で天に召された。

終劇

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この爆発事故で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りいたします。
また、当時助けてくれた皆様、本当にありがとうございました。
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これ書いてるとき、日本で「大地震注意」なるものが発表された。
何事も無いのを願うばかりである。


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