日本の風土への適合→魔改造
成果主義に基づかない人々
のっけから飛ばすが、自分は社会学者や経済学者が嫌いである。
「血の通ってない発言を平然と行う」「エピデンスなんてガン無視」「仮説に拘泥する」「現実と学説に齟齬があると、現実が間違っているという電波発言をする」等々があるが、最大の理由は
成果主義を求める癖に、自分たちは成果主義の範囲外
という人間としての傲慢さだ。
我が国の公務員比率は既に先進国最低であるというファクト。
NPO法人数のグラフ
「財政破綻論を口上に小さな政府を目指し、目の届かない所ははNPOや各種法人がそれをカバーしていく」という平成年間の社会設計は論理・倫理、その他あらゆる方面で破綻に向かっている。
設計主義的傲慢さのある社会学者や経済学者は彼らのいう成果主義的論理からすれば、その設計に大変な責任を持つべきなのだろうが、一向に彼らから反省の声は聞こえてこない。
…もう彼らに反省を求めるのはやめたほうがいいのだろう。その代わり、「アメリカの制度を移入すれば万事解決!」と勘違いしていた彼らはきっちりと歴史的評価を死後に甘受すべきだ。
日本はアメリカじゃない(ド直球)
何より、最大のミステイクは「国土や面積や歴史の全く異なるアメリカの制度をそのまんま日本に導入した事」だろう。
とり得る政策というのは国土や歴史によって必然的に変わってくる。それは地方自治体でも同様だという典型例が明石市だ。
交通の要衝という立地的優位性を利用し、同規模の地方中核自治体だと自前で行わなくてはならない企業誘致やインフラ整備を国や近隣都市に依存(悪く言えば寄生、フリーライド)する形でこれらの予算を思い切りカットして子育て支援施策にガン振りして、子育て世代の税収を横取りした挙げ句ドヤ顔しているのは御門違いも良い所だ。
(私が周辺自治体の首長ならいい加減にしろと言うだろうが、恐らく「自治体としての自助努力」を口実に反論するだろう。こういう所がネオリベ的で維新の精神的兄弟と揶揄されるのだが…)
話が逸れた。日米の差異の話だった。
可居住面積が全く違う。
アメリカ 61,9910,000ha=6,199,100平方キロメートル
日本 378,000✕0.3=113,400平方キロメートル
国民構成が違う(人種のサラダボウルのアメリカと、九割以上が同一民族の日本)
歴史が違う(建国250年程度のアメリカと、少なくとも4世紀から1700年以上単一王朝が支配している日本)
天災の発生頻度が違う(天災が起こっても可居住面積の広いアメリカはさっさと移住できる。可居住面積が狭く人口が集中しやすい日本は簡単に移住できないので治水治山などインフラ整備を充実させるしかなかった)
立地が違う(北米はほぼ自分の庭で安保上安全地帯のアメリカ、一方常に中華王朝の顔色を伺い近代以降はロシアの動向も気にしなくてはいけない日本)
パッと思いついただけでも、これだけの差異がある。
当然統治の手法から政治思想、国民性まで変わってくるのだ。
一流と言われる大学を出ておきながら、経済学者や社会学者は何故かそれが理解できないでいる。
「魔改造」こそ日本人の知恵の結晶
我が国は「他国の万物を日本流にアレンジする天才」だった。
食べ物が典型的で、ヒンドゥー教徒のインド人にカツカレー見せたら仰天するだろう(ヒンドゥー教徒は豚を忌避する)、中華料理はほぼ日本流にアレンジされている。イタリア人にサイゼリヤ見せたら「何でこんな安価でリストランテクオリティが食べられるんだ?」と驚かれ、逆にアメリカ人から見たらクリスマスにKFCは非常に奇異に見える。
日本人の魔改造は何も食い物だけではない。
1543年頃、ポルトガルから伝来した火縄銃は50年経ったら世界最大規模の火縄銃保有国家になっていたし、同時期に伝来したキリスト教は紆余曲折を経て隠れキリシタンとなり、仏教と混合してローマカトリックとは別物となった地域もある(長崎の隠れキリシタンで調べてみよう)。
そもそも、仏教自体が中華王朝からの舶来思想であり、その中で日本人はどんどん宗派を作っていった。
このように、日本人というのは最初こそ渡来品を排斥するものの、その有用性がわかった途端に積極的に取り入れ、工夫と称して風土に適合するように魔改造するという民族的習性(知恵)がある。
経済学だって魔改造をすべきだったのだ。
それを怠った(もしくは魔改造するだけの知識がなかった)が故の惨状が今だ。
我々日本人は「魔改造文化」をもっと誇ってもいい。
そして、無条件で受け入れたらどうなるか?という社会実験の結果は出た。あとは行動を起こすのみであろう。
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