民意主義と民主主義①〜都市型保守という「もう一つのリベラル」

似て非なるもの。

スラム街は都市特有

今日もまた、Twitterで火災が起こっている。火消しするような存在がいないので自然鎮火を待つしかないのだが、次々と燃焼剤が散布されているので暫くは炎を眺めているしかないようだ。

火元となった記事はこちらである。
北陸の中間山地の地方自治体の「移住者へのお願い」に対して、インターネットスラム街の住民が色々な口実をつけて暴動を起こしている。
様々な御批判の種類が散見されるが、要約すれば「田舎のくせになまいきだぞ」の一言に尽きる。

自分がマウントを取れる最も手っ取り早い手段が居住地域マウントだからなのかもしれないが、都市近郊のスラム街の住人達が田舎の農村に向かってマウントを取っているように見えて、傍目からは非常に滑稽に映る。自分がTwitterをインターネットスラム街と愛憎半ばで揶揄している理由を再確認できてしまったようで悲しい。

「他所からやってきたお上りさんなのに、勝手にマウンティングの道具にするな。土着している東京都民だって迷惑だ」と、3代住めば江戸っ子と呼ばれる東京土着の住民も苦い顔を隠せないようだ。

『居住地を、自分の勝手な虚栄心を満たす道具にするな』という氏の皮肉は、果たして彼らに届いているのか心配である。


なーにが「地方自治」だよ

程々の距離感こそ大事、という意見もある。

このツリーの提言は非常に興味が深い。
倉本圭造氏のnoteは色々と拝見させて貰っているが、氏の主張の真骨頂は「異文化同士の衝突は必然である。上手く行かないのは互いの道理を押し付けて強制的に従わせようとするからであり、噛み合わせを良くする為には緩衝材の設置なり適度な距離感を置いたり遊びを設けたりして、バッファーを作る事だ」という所だ。
(これは氏の「大企業と中小企業」「グローバルとローカル」「世代間格差」「ジェンダー論」など多岐の分野で読み取れる)

平成中期以降、地方創生コンサルタントが尽く地方創生に失敗して公金だけ無駄に消費していったのは「都会の論理や都合」を強引に押し付けた結果、被害者意識と意固地さを拗らせた田舎側が反発した結果でもある。
本来ならば、地方創生コンサルタントに期待された働きは「都市の理論」と「地方特有の事情」のバッファーだったろうが、これは残念の限りだ
(そして、コンサルタントは「これだからダメなんだ」と捨て台詞を吐いて去り、東京で「これからはお前らにリソースさけません」と上から目線で延々と田舎のダメさを評論家風情で語り続ける。予算も消費し、己ののプライドも保てるので実に賢い立ち回りだ。その地域に溶け込む努力すらしなかった人間に、お前らが変われと上から目線で説教し続ける事が彼らにとっての「仕事」であり、正解なんだろうと思うと脱力するしかない)

そのバッファーを「無駄」と称して削り続けた平成年間、その結果として田舎は共助を余儀なくされてきた。にも関わらず令和になって「自助・共助・公助」なんていけしゃあしゃあとほざく首相官邸の言葉は現状の追認に過ぎない。
中小規模の地方自治体では地域の草刈りやゴミ清掃、水路の補修といった作業や消防団活動は今や地方自治体による公共工事でやるものではなく、地域住民の自治活動という範囲になっている。

それを間接的に望んだのは紛れもなく無駄な税金論という名前の「都市の論理」であろう。にも関わらず、それらの地域住民の自治活動、利便性を確保する為の「田舎特有の濃密な人間関係」を否定するのは極めて不条理だ。ましてや、それらを言いながら「中間共同体の復活」を主張しているのであれば、自分としては「いい加減その臭い口を閉じろ」とも言いたくなる。


土の匂いがしない保守の台頭

自分は保守的な傾向の人間だが、「土の匂いのしない保守」というのも嫌悪する傾向にあると自己分析している。

平成年間、土やコンクリートの匂いのする保守は「利権政治の象徴」として徹底的に批判対象となった。
故郷の土の匂いそのものを嫌悪する全共闘世代を中核とするシティリベラルたち、堂々と「土の匂いがする保守は税金泥棒である。税金で飯を食う人間は完全に排除すべき」と言い切り椿事件を起こすほど執拗かつ徹底的に、公共の電波で叩きまくった久米宏とかいう電波呪術師。
そして土の匂いが強い経世会を憎んだ石原慎太郎、改革の名前の下に叩き潰した『平成最強の派閥政治家にして大蔵族議員』小泉純一郎と、その係累たち。彼らの選挙区が東京や神奈川といった中央にあったのは偶然でも何でもない。

選挙区民が彼らを望み、当選させ続けてきたのだから。

土の匂いのする保守とは「自らの手を動かし、自ら考え、郷土を保全し、少しでも利便性を高めようとする。愛郷心のある保守」と言い換えることもできる。
しかし、土の匂いのしない保守は自らの手を動かす必要性がない。現住地が故郷ではないので愛郷心が育まれる訳もなく、郷土を保全するインセンティブが乏しい。利便性なんて企業や国が勝手に上げてくれる。

彼らが語る政治が国家観とか国際経済といったスケールの大きい話になりがちなのも無理からぬ事だ。国家規模の話をしている一方で、生活に密着した選挙区民の陳情を聞く田舎選挙区の議員をせせこましいと感じるのも当然だろうし、密な関係性を癒着だ利権だと思うのも当然だろう。

土の匂いのしない保守は、故郷を捨て故郷の因習を嫌う選挙区民は「限りなく都市化という名前の粒子化がされた数字」でしかない。そのような数字に感情移入するのは難しいであろう。
結局、彼らが倭式ネオリベという名前の縁故資本主義とアナルコキャピタリズムを内包した、民の実情が見えない「もう一つのリベラル」に変化するのは必然だったと感じるのは言い過ぎであろうか。


まつりごと

外国人が日本語を学習する時に必ず壁になる同音異義語の存在。
我が国では、「まつりごと」は『政』であり『祭事』であった。

神がもたらすと考えられてきた台風・洪水・地震・冷害・旱魃・疫病などの天災パラダイスな日本にとって、八百万の神々に平穏無事を祈り五穀豊穣を報告する一年一度の祭りには、もう一つの側面があった。
その場の寄り合いによって次年に栽培する作物の割合や開墾する土地を決め、水利を作事し、互いに助け合う事を確認する。そして、これまでの苦労や餓えへの恐怖からの開放を祝い、飲めや歌えやの祭りを行う。それ即ち、政である。

我々日本人は、その国土の多様性及び厳しさ故に、中間共同体を作らざるをえなかったとも言える。

だが戦後の高度経済成長に伴い、日本人の生活様式は爆発的に利便化した。村落という中間共同体は自然と、カイシャという名前の中間共同体に変貌していった。
平成年間はその中間共同体から排除される人間が続出する。
彼らは流民となり、不可触賤民となり、帰る故郷もなく、「どの中間共同体にも所属できない存在」として不気味さを放っている。

限りなく都市化という名前の粒子化がされた数字でしかなく、帰る故郷もなく、中間共同体から排除され、スラム街にたどり着いた彼らによる「中間共同体のルールという名前の中間搾取と田舎の因習」に対する批判は、持たざる自分たちに対する自己憐憫と、寄るべき共同体を持った者たちへのやっかみの裏返しなのかもしれない。


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