永遠にめぐる季節 木村文洋(映画監督)
今年春に肉体を去った福間健二さんの最新映画『きのう生まれたわけじゃない』。
とにかく多幸感あふれるカットをみつめ、そして謎が積まれていくような体験でした。
傷を開くような春(急にたどりついてしまう)、煉獄に焦がされんばかりの夏(岡山の娘、わたしたちの夏)、若さから喪失、再会の成熟の秋(パラダイス・ロスト、秋の理由)、厳しくも夕陽が優しい冬(あるいは佐々木ユキ)、映画や詩で、季節をもっともっと何回もめぐってほしいと個人的には願っていた。この最新作は冬の映画には違いないのかもしれないが、最後の海が示すのはどこか永遠にめぐる季節に向かっているよう。
湿った地面や枯葉、テーブルに置かれた料理、土が印象的だった福間さんのこれまでの映画に比して、空を写すカメラに何度もゾクゾクした。光や雲が、気がつかなかった差し方で目に静かに入ってくる。地上での人間たちの関わりや出逢い、生への戸惑い、楽しみ方も乱反射のように紡がれていく。道路の表情、落葉、橋やベンチに置かれたゴミまでが、生きる上での喪失を愛でて、話しかける。
福間監督の言葉は、眼の前の豊饒な光景と、無限の想像力とをつなぎつづけることを日々恐らく志していた。海に永くいた彼は(それはほとんどの人間が覚えていない)、七海ちゃんと逢う運命にあった、とお互い信じること。君のなりたいひとになってあげる、と誰かに告げること。
世界の光景を豊穣にとらえるには、カメラを置く前にじっと世界に眼を澄ませていないとみえてこない。スタッフ、誰かとともになら、より豊穣におもしろく捉えられるかもしれない。沈黙や雑談を行き来し常にそう念じながら、詩とスタッフ達との言葉はあるいは違っても、何十年も小刻みに言葉は紡がれつづけていたように思う。
貧しく痩せていく大地でも、それでも生命は日々、静かに小さく生まれている。そのことへの切実な声かけを、これまで以上に感じた作品だった。
振り返って不思議なのは、昨年のいまごろ、この映画撮影前の監督と電話で少しだけ話した。まだまだ撮り続けることに微塵の疑いも感じない、無邪気さに溢れていた。映画は今年春にしっかり完成し、その後に監督は急にこの世を去ったという。
それでいながらこの映画が公開されているいま、福間さんは自身がいまいる場所も、この世界も、しっかり分かっていて撮っていたように思えてならない。そのことに鑑賞中、何度か動揺した。ほんとうに無心に、あえていうなら無為に、自身の生と世界について心底楽しみながら、言葉とカットとを紡いでいたのか。
こんなことがあるのか…。正直まだ、よくわからない。
生者も死者も同じく近くに感じ、日々ありがとうと言い続ける時間。
長い時間をかけて、出逢い直したい映画です。
※初日に観にきて下さった木村文洋さんのFacebookでのご感想を本人を許可を得て掲載させて頂きました。この場を借りて木村さんにお礼申し上げます。