思い出す・骨付きチキンを・食べる時
骨のついたチキン、美味しいよね。
骨のついたチキン、揚げてあるとなお美味しいよね。
ぼくはあれをね、むちゃくちゃ綺麗に食べる。マンガで恐竜に丸のみにされた生き物が、おしりから骨一本でポロッと出てくるような、あんなふうになるまで、チキンの骨をしゃぶりつくす。アンパンマンに出てくるホラーマンの手足よろしく、ああなるまでチキンの骨をしゃぶり倒す。
なぜか。
骨のついたチキンを食べる時、大昔、小学生のころに見たテレビ番組を思い出すからだ。NHKで放送されていた、プロジェクトXかなにかだと思う。とにかく、困難に立ち向かう人を描いたドキュメンタリーだ。
その放送の中で、骨のついたチキンが出てきた。
とてつもなく衝撃的な、カルチャーショックという表現が、もっともふさわしいだろう形で。
番組が始まる。
ある日本人が、アフリカに井戸を掘ろうとしていた。水源を争って部族間抗争は絶えず、また水もないので農業を根付かせることも出来ない。生き、そして定住した暮らしを営む上で、なにより水は必要不可欠だ。そういう場所に井戸を掘るという計画そのものが、かなり危険な行為……らしい。
番組は続く。
井戸を掘るには様々な機械が要る。その機械を狙う野盗がいる。また井戸が完成することで、そこを根城にしてやろうという野蛮人も現れる。それを退治しようとする抵抗運動が、争いの火種を大きくする。たかが井戸、されど井戸。水が貴重ではない人にとって、もしくはぼくにとって、それほどの大事業なのかという興味が次第に湧いてくる。
番組はまだまだ続く。
ある村にたどり着いた日本人は、そこで歓待を受ける。現地語を話せないその人は、通訳の言葉に耳を傾ける。村の長老が直々に挨拶に来たこと。村民がこぞって事業の成功を願って踊りを披露してくれたこと。そしてこの村で出来る最大限の、贅を尽くした食事を用意してくれたこと。
食事は、そう、チキンだ。骨のついたチキンだ。
若く、まだ子を産めるような、将来性のある鶏をさばいたという。この鶏を飼育していれば、いくらかの卵を得ることが出来たという。日本人は村人たちの熱意を、そのチキンから感じ取ったそうだ。食事を終え、チキンをつかんだ指を拭きながら、この事業をぜひとも成功させたいと告げた。
その瞬間である。
その場に控えていた給仕の若者が、チキンの骨にかじりついたのだ。
いわく、「まだたべられるところがたくさんある」と。
これにはたまげた。とんでもなくたまげた。この番組、録画しておけば良かったと後悔したくらい、たまげた。なによりそう感じた理由は、まだ残ってるなと思ったことが何度もあったからだ。
あれの食べ残し、切れ端を、喉から手が出るほど欲しがる人が、世の中にはたくさんいたんだと思うと、それまでの短い生涯、自分が猛烈に恥ずかしくなった。
番組はいやが上にも続く。
日本人の胸から、ぜひとも、という修飾語が消え、命を賭けてでも成功させなければ、という使命感へと変化した。
そして番組は続き、最大の試練が訪れた。
どうしても、井戸の機械が動かない。電気もある。コードもつながっている。けれどもなぜだか動かない。スイッチを押し、万事が上手くいけば、たくさんの水が蛇口から出てくるはずなのだ。ありとあらゆる手段を講じ、出来うる限り、考えうる限りの手は尽くした。
だが機械は動かない。命を賭けると誓った事業が、最後の最後で、乾いた大地に倒れ伏してしまった。その時だった。
長老が、若い鶏を手に現れ、言った。
「この生命を神に捧げよう。神よ、我らを救い給え。その慈悲を崇めさせたまえ」
そして命を賭けられた機械は、まるで神の慈悲を得たかのように動き出したのだ。村に水が溢れ、老若男女は喜び、そしてチキンを食べた。
そして番組は終わる。
番組から得た教訓は、「骨付きチキンは無駄なく食べよう」だ。
この番組でもっとも大切なことは、きっとそれだろう。井戸を掘ることが大切なことか? 神の慈悲を崇め奉ることか? 大事業に若い鶏を捧げること? いいや違う。
食べ物は、残さず食べよう。それ以外にメッセージがあるだろうか。
そう考え、そう思ったからこそ、十数年たった今も、骨のついたチキンをきれいに食べる。
神よ。天にまします我らが父よ。
こんなに美味しい生物を想像してくださったこと、その御名を崇めさせたまえ。
ごちそうさまでした。
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