アイドルという無形の存在

アイドルはなにをする職業か?

と問われた時、一言で答えるのはなかなか難しい。一昔前なら、歌、あるいはそれに演技が付随した、いわば『女優の卵』としてのポジションが、アイドルと言えたかもしれない。

今はどうだろう。アイドルはあちこちにいる。90年代の冬の時代が終わると、春の野草のようにあちこちで芽吹き始め、『娘。』を筆頭に百花繚乱の時代が訪れた。それからしばらくして、三文字が台頭し、坂道、ご当地、ローカル、地下、声優……などさまざまな『アイドルのジャンル』が生まれてきた。

とにかくアイドルとは、多角的になにかやる存在、になった。

昨今その多方面っぷりが特に取り沙汰されているアイドルの一角が、

『アイドル声優』

である。

15年前、中原麻衣さんという声優のラジオを聞いて、耳から恋に落ち、声優ファンになった。それから一ファンとして業界を眺めてきたが、その景色はずいぶん変わったように思う。

アイドル声優とは、スタンスはアイドルだ。声優ではない。だがアイドルの仕事として、アニメや吹き替えのアフレコをして、ラジオで喋り、テレビ番組で顔出しの司会をしたり、はたまたキャラクターとして曲を歌い、同時に声優として歌唱をし、写真集を出したり、各地のドームで歌って踊るライブをやる。

他にも細かいところまで列挙すると、むちゃくちゃ多角的である。

この風潮は昔からあったことだ。だがアフレコに比べると、それほど比重は大きくなかった。仕事だからやる、という語り口で振り返られることが多く、出来なければならない(must be)ということは、あまりなかったそうだ。

だが今日日では、『歌が歌える』『ダンスが出来る』ということが、オーディションの優先事項になりつつある。そのことについて、あまり疑問を持たなかった(そうであることが当然の世代からファンになったため)が、どうやら世間の認識はそうではないらしい、ということを最近になって知った。

ここ10年15年で、世間の声優に対する認識と、業界の実情に、ずいぶんな『ズレ』が発生していたのだ。

声優ってなにする仕事なの? という問いに対する世間の答えは、『アフレコ』『芝居』これのみだろう。ごくまれに、バラエティ番組に顔出しする仕事は昔からあったが、基本線はアニメのアフレコや洋画の吹き替え、舞台でのお芝居だ。

しかし現在、実情はかなり異なる。歌やダンス、その他人目を引くような一芸を持ててようやく、『顔』と『名前』をファンに売る権利が与えられる。アニメや吹き替えで演技のできる声優を目指す、という目的を持つ一方、その目的地は、想像とはまったく異なる場所にあると言っても、過言ではなくなってきたのだ。

青梅(西東京の茶色いど田舎)と青海(東東京のキラキラした都会)くらい、目的地と場所にズレがあると言ってもいい。

今のところ声優を志す場合、だいたいのルートはアイドル声優という卵の殻を経て、ようやく声優になれる、という業態になりつつあるのだ。このことを、若い人たちが理解していないと、西東京の茶色いど田舎にたどり着くハメになる。

なぜ目的地が青梅と青海ほど離れてしまったのかはもはや定かでないが、この流れはもはや止められないし、永久に変わらないだろう。声優は顔を出して歌を歌い、要望に応じてステージの上で踊らなくてはならなくなった。その発注に応じれるだけのスキルが、声優には必要になった。なってしまった。

ただ、これは一方的に『悪いことだ』とも言えないのだ。

食える手段というものは、大いに越したことはない。食えない食えないがモットーの声優業界……ひいては芸能業界だ。歌を歌ってCDを出せばいくらかの印税が入る。ステージに上がれば同様に、ラジオでしゃべることも、雑誌や週刊誌でグラビアを飾ることも、食うための手段なのだ。

人間は、食べなければ生きていけない。その手段がたくさんあることは、決して悪いことではないどころか、あればあるほど良いはずだ。

さいわい、高校では選択科目にダンスが出来た。街へ出ればカラオケボックスはたくさんある。今となってはカラオケに行ってもヤンキーに絡まれることもない。Youtubeにはメイクを指南する動画も、歌い方をレクチャーする動画もある。

世には、アイドル声優という中継地点にたどり着くための標識が、たくさんあるのだ。

だから、目的地が、青梅なのか青海なのか、きちんと判断してほしい。

しかしてこの話、ここからが本題なのだ。

アイドルが多角的になったことで……あるいは多角的でなければならなくなったことによって、『旧来あったアイドルという概念』が、もはや機能しなくなってしまったのだ。アイドルとして歌がうまくても、歌がうまいだけでは、もはや世に出ることが出来なくなってしまったのだ。

『~~なのに**もできちゃうんです!』というような意外性、複合性、多面性をウリにすることが当たり前になった結果、その人の本質の部分を見ることがまったくなくなってしまった。

これが悲劇でなければ、いったいなんなのだろうか。

もっとも、『お前に本質を見る目があるのか?』と言われたら、ぐうの音も出ないのだが。

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