TGM考察

TGMのテーマは大きく分けて二つある。

・血の繋がりに依らない共同体・居場所を得ること
・自分の内面と向き合ってこなかった弱者男性が、トラウマを克服すること

上記の二つだ。マーヴェリックが血の繋がりに依らない共同体によってエンパワメントされ、本来の自分を取り戻し、帰るべき居場所を見つけるという文脈は映画本編を見ればすぐにわかることなので割愛する。

この記事では二つ目のマーヴェリックが弱者男性であることに言及したい。

ハードデックでマーヴェリックは過去の恋人であるペニーにある意味では屈辱的な目に遭わされている。これはマーヴェリックが過去に彼女にしてきた自分勝手な振る舞いの仕返しをされた、と読み取れる。
おそらくペニーはマーヴェリックにこれまで何度も一方的に振り回され、傷付けられてきたのだ。アメリアがマーヴェリックに「今度は傷付けるな/ママを悲しませないで」と釘を刺すくらいには。

翌日マーヴェリックはハードデックに赴き、ペニーにツケの精算をする。ペニーは最初に彼が「明日支払いに行く」と発言した際には拒絶している。が、最終的には折れてマーヴェリックからの精算を受け入れる。
これはマーヴェリックにされた自分へのデリカシーのない行為をペニーが許すという意味合いが含まれているのだろう。

トップガンでの初回訓練ではマーヴェリックはルースターから「下劣な教官呼ばわり」されている。ルースターは願書を破棄された件でマーヴェリックに強い怒りを抱いているが、マーヴェリックはその感情に真剣に向き合ってこなかったのだと推察できる。

ペニーには「あいつは俺を恨めばいい」と言っておきながら、アイスマンと対峙する場面では、「時間が経てば許してくれると思っていた」と心情を吐露する。「俺を恨めばいい」はマーヴェリックの建前に過ぎず、実際には彼はルースターから許されたがっている。
しかしルースターを失うことを恐れ、彼は真正面からぶつかることを避けている。

この嫌なことから逃げ続ける。過去のトラウマ(グースの死にまつわる溝)を克服できない部分が、マーヴェリックが弱者男性であると考える理由である。
そして弱者男性であり中年男性の心の傷のケアラーの役割を任されているのがペニーだ。
フェニックスのジェンダーについて言及されていないことや、ペニーが大人しく男を待つ女ではないこと、自ら航海をする強くたくましい女性であることを賞賛する声は多いが、これは脚本を書いた人間が女性性にはなはだ興味がなかったことのあらわれではないだろうか?

必要なのはルースターやマーヴェリックの心の傷をケアし、寄り添い、支えてくれる強く美しい女のみであり、女の弱さは不要だからこそ排除された、とも読み取れるのではないだろうか。

しかし吹き替え版ではフェニックスのことを「ウィングマン」と呼んだマーヴェリックに対して、ハングマンが「お前女だと思われてないな!」とある種抗議ともいえなくもないコメントをする。
これはつまりフェニックスが女性であることを意図的に無視/排除しているわけではない、という作り手のメッセージだったのかもしれない。

ちなみに中年男性の心の傷をケアする女性、という文脈を持つ作品が邦画にもある。「はい、泳げません」がそれだ。
この映画に登場する女性は心の傷を負った中年男性を成長させたり、すくい上げたりするために存在する、という感想が以下である。

これはトップガンマーヴェリックの構造と酷似している。しかしマーヴェリックを批判する声はさして見かけないのはなぜだろう?
それはマーヴェリックもまた愛を与える者であり、ケアラーの役割を背負っているからではないだろうか。
彼は与えられるばかりの人間ではなく、愛を与えることもできる。
ペニーとアメリアの関係が良くなったと褒めることも。自分の辛さはおくびにも出さず、夫の死を目前にしているサラを抱き締め、「いつでも力になるよ」と励ますことも。ルースターに今自分がしてやれる最大限の愛情(恐怖心を制御し、彼の能力を信頼し、ウィングマンを任せること)表現も作中でしている。アイスマンに「俺が海軍にいる理由はお前だ」と最上級の献身も示している。

マーヴェリックはただ与えられるのを待つだけの存在ではないし、無条件に愛されたがっている赤ん坊でもない。
彼は不器用ではあるが優しさと魅力にあふれた人物であり、だからこそ周囲は彼の支えになることを望んだのだろう。
自分を責め続けてきたマーヴェリックは、ルースターとのわだかまりを解消し、ようやく「俺はここにいてもいいのだ」と、生きていてもいいのだと。自分は誰かからの愛を受け取るに値する人間なのだと信じられるようになったのかもしれない。

追記
ちなみに映画の最後でマーヴェリックの格納庫にルースター、ペニー、アメリアという彼にとっての新しい家族が集合する図は「十二国記」や「ハリー・ポッター」と同様の文脈を持つと考える。

「ファンタジーとジェンダー(2004年7月16日・高橋準著・青弓社・202P~203P)」では以下のように解説されている。

陽子にとって、生まれた家族は安住の場所たりえなかった。では彼女は居場所をどこに求めたのだろう。
中略
では彼女はどうしたか。『黄昏の岸 暁の天』で陽子は、「十二国記」世界で出会った大事な人たちを官邸に集めていく。
中略
陽子は「家族」を別のかたちで再構成しようとしているのである。そしてこの五人を自分の居場所、つらいときにふと立ち戻るところにしようとしている。ここに集まっているのも同じように居場所がない人たち、あるいは最近なくしたという人たちがほとんどだ。
中略
ハリー・ポッターもまたエピグラフのように、自分の居場所はホグワーツにあると感じている。彼にとってはおじ・おばの家ではなく、仲間や父親役割の担い手たちと生活してきたホグワーツこそが「わが家」であり、戻ってくるべき場所なのである。彼女ら/彼らがめざすものは、過去に失った家族を取り戻すことではない。新しいかたちで、
新しく家族を作り上げようという試みこそ、めざされているものなのである。

この記事の冒頭でも述べたが、マーヴェリックは彼らが/彼らと形成する共同体、新しい繋がりの中に自身の居場所を見出したのだろう。
また199Pにはこのような指摘もある。

もちろん、どのような効果を読み手にもたらすか、それは実は読み手次第だともいえる。読み手がどのような「家族」を経験しているか、どのような「家族」観を有しているかによっても、読まれ方は異なるからである。

筆者にとってトップガンマーヴェリックは単なるエンタメ映画には留まらない。それは筆者が機能不全家族で育った経験があるからだ。
父親が自殺したのは筆者が十二歳のとき。末っ子が当時二歳か三歳の頃(筆者は四人きょうだいの次女である)だった。筆者はルースターやアメリアに自己を投影せずにはいられず、マーヴェリックという「父親」やペニーという「母親」に対して腹立たしさを感じるときもある。
無計画に四人も子供を生み、仕事をリストラされた父親を連日責め続け自殺に至らせ、子供時代に必要な多くのもの(安心感、親の顔色を伺わずに済む環境)を与えてもらえなかった自身の両親への行き場のない怒り、悲しみ、母親の苦しみに寄り添いたい、許したいと思う肉親の情が長年せめぎ合っていたことがフラッシュバックするのである。
しかし筆者の母親への複雑な感情は年を取るにつれ和らいでいる。マーヴェリックやルースターに倣い、「過去は水に流す」努力をしようと襟を正す今日この頃である。

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