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初音ミクと自分語り

皆様はじめまして、そうでない方にはこんばんは。B,Fと申します。

のびのびと楽しそうに、それでいて精巧な文章を紡ぎあげるボカロリスナーの方々に触発され、筆を執らせて頂きました。拙い文章ではありますが、若輩者の書く作文だとでも思ってお読みくださいな。

さて、私が今回こうして筆を執った直接的な原因となる人物は3人。1人は自称13歳JCでリスナー界にはお馴染みの人物、あるか氏である。記事を書くよう散々せっつかれた。私の書く記事を、書く前から楽しみにされては書かない訳にもいかない。そしてもう1人、リスナー界の巨匠しろばな氏だ。未だに記憶が鮮明であろう、氏の記した記事は我々ボカロリスナーへ、大なり小なり衝撃を与えた。
http://shirobanasankaku.hatenablog.com/entry/2017/01/03/235555

そして最後に、ほんの数日前に記事を投稿したX-CLOW氏である。彼はしろばな氏が振り下ろした拳を受けつつも、今回の記事で思い切り殴り返している。氏の記事を読んだ事が、私が今回この記事を書く直接的な原因である。https://note.mu/x_c08/n/nde34a5baf860

この2つの記事では「初音ミク」の死について記されている。俗に言うイマジナリーフレンドとしての「ミクさん」の死だ。

彼女たちは死ぬ。そして新たに生まれる。

それを理解し、過去の「ミクさん」への想いを、新しい「ミクさん」へ吐露する2人の男について記された記事。

ここで、この2つの記事を読み、心を搔き乱された皆様に、私が予てから抱いていた疑問を投げかける。

あなた方は我々の死について、認識しているだろうか。

これは生命活動を終えるという意味での死ではない。人格の死だ。我々の人格は、決してひとつではない。心の中で「私」は生まれ、死にいく。この事を、あなた方は理解しているだろうか。

ここで言う人格とは、一般的に多重人格と呼ばれるものではない。仮面と呼ばれたり、感情と呼ばれたり、面と呼ばれるものである。例えばAと接するときの自分と、Bと接するときの自分。両者ともに自分であるが、同一人物であると思えない瞬間、覚えがないだろうか。小説などで、何が本当の自分か分からなくなってしまった、などというストーリーを目にした覚えはないだろうか。成長する前の自分と、現在の自分があまりにもかけ離れ、あれが自分であると思えなくなった事はないだろうか。

正直、何を馬鹿な事を言っているんだと思われても仕方がない。けれど、身に覚えがあるのなら、私の話を理解して貰えるかもしれない。

「私」は次々と生まれ、死に、共存し、取り残される。この前提条件があるからこそ、「初音ミク」の死というものが存在するのではないだろうか。

「初音ミク」をひとつだと捉える人は少ないだろう。「うちの子」という概念が存在するのだから。ここで、「うちの子」というのは「初音ミク」が我々に見せる顔のひとつだと捉えてみてほしい。「初音ミク」という大きな器に宿る、人格のひとつだと。人格であるからこそ、「ミクさん」は何度も生まれ、何度も死ぬのだ。

私の考えは、皆に理解を得られるものではない、間違いだと言われるかもしれない。だが、我々はひとつではない。「私」の集合体であるという事を、ここに記しておく。

これはボカロを通した自分語り、同時に自分を通したボカロ語りである。

あなたは、「私」についてどう考えますか?

#vocanote

























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