戦場は荒野

緑の地へ

機動戦士ガンダム第8話「戦場は荒野」は、もはや語り尽くされたエピソードである。劇場版として再編集される際にカットされたが、基本的に劇場版ベースの、安彦良和による漫画「機動戦士ガンダムTHE ORIGIN」ではこのエピソードが収録されている事を考えても、重要性が理解できる。

あらすじはシンプルで、避難民を載せてジオン軍の追撃から逃げるホワイトベースが、この状況を逆手にとって反撃に打って出ようとする、というものである。

この時のホワイトベースはきわめて不安定である。ガルマ率いる強力なジオン軍(シャアも随行している)に追われるだけではなく、艦長であるブライトからすると目障りなだけの口うるさい上官リードの存在、そして不満ばかり口にする避難民と、ほぼ最悪な状況である。

そこで彼らは一計を案じる。避難民を降ろしたいという要求をまずジオンにつきつける。民間人は犠牲にできないからしょうがないと要求を飲むガルマと、今までの経験から怪しいと感じるシャア。それもそのはず、ブライトたちは、避難民を逃がすフリをしてモビルスーツを運搬し、奇襲をかけようとする。うまくいくだろうか。「戦場は荒野」をブライトやアムロの視点で見ると、こういった戦術的な駆け引きの物語としてとらえることができる。

しかし、「戦場は荒野」が特徴的なところは、主眼がまったく別のところに置かれている点にある。

ペルシアとコリーという親子が登場する。彼らはホワイトベースに乗り他の多くの避難民と同じように地球にやってきたが、故郷であるセントアンジェに向かうといい、避難民の集団からは別行動をとる。そこに、ホワイトベースの動向を探るために飛ばされたジオンの偵察機が迫る。ペルシア親子からすれば、「敵に見つかった!」という恐怖しかないが、偵察機ルッグンの搭乗者であるバロムとコムは、食料などの生活キットが入ったカプセルを投下して去っていく。バロムは言う。

「ガルマ大佐はまだお若い。俺たちみたいな者の気持ちはわからんよ」

泣かせるシーンである。この後、バロムのルッグンは、避難民輸送用のはずのガンペリーにガンダムが搭載されていることを発見する。今まで視聴者は、アムロがジオン軍をやっつけるたびに喝采を送っていたはずである。しかしここでは違う。「アムロ、そいつはいいやつだ、見逃してやってくれ!」

そんな視聴者の気持ちを汲みとってか、アムロは、

「見つけなけりゃいいのに」

といい攻撃する。ルッグンは撃墜されるが、なんとか不時着し、バロムとコムは、ペルシア親子と合流する。

戦闘が始まる中、彼らは完全に蚊帳の外である。

「戦いはどうなってるんでしょう」

「さあな。どちらが勝つか…」

「どちらが勝っても負けても、私のように夫を亡くす人がおおぜい出るんでしょう」

心に刺さる言葉である。ジオンが虐殺してきた人にも、アムロ達が殺してきたジオン兵にも、家族がいるのだ。それが戦争なのだ。

別れ際、バロムが言う。

「奥さん、ここが1年前までセントアンジェのあった場所です。奥さんは湖の仲間のところにお帰りになったほうがよいでしょう」

泣き崩れるペルシア。美しい故郷は、見る影もない荒野になっていたのだ。この展開は、「マッドマックス 怒りのデスロード」にそっくりである。ジョージ・ミラー、もしかして…。

そして最後に危機を脱したホワイトベースの中で、アムロはフラウとハロと一緒に暗い窓の外を見ながら、

「あの親子はセントアンジェに着けたんだろうか」

とつぶやく。アムロ達は、セントアンジェが戦争で消滅していることを知らない。ペルシアの慟哭も知らない。『機動戦士ガンダム」では、情報を皆が共有できないところにある悲劇が繰り返し描かれる。のちにこの物語は、「アムロは超能力者(ニュータイプ)なのでは」という展開になり、それはやや唐突に感じる。しかし、この「皆がわかりあえない悲劇」を乗り越え、物語を終わらせるものとして「ニュータイプ」という概念を出さざるを得なかったともいえるのではないだろうか。

ちなみに、ジオン軍からすれば「絶対に勝てるはずの戦い」で、シャアも「これで勝てなければ貴様は無能だ」とつぶやく戦闘で、ガルマは見事にほぼ全滅という惨敗をする。その時のガルマの台詞が、とてもよい。

「あぁぁ、このような失態を、姉上になんといって報告すれば良いのか…」

アムロ達を追い詰めるガルマもまた、誰かの評価なしでは存在できない存在だったのだ。同時に、視聴者は強烈にジオン軍の「一族経営」感を思い知らされることになる。

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