見たくないものを見ない権利について
どうも、虚無の先と名乗らせていただいている者です。
見たくないものを見ない権利(以下見ない権利と略します)について最近Twitterで唱えられています。現状、法学的、論理学的反論がいくつかありましたが、まだ、筆者の今の視点からの反論は観測できなかったのでその反論を紡いでいきたいと思います。
基本的に見ない権利のような日本国憲法に明記されていない権利に関しては、憲法第十三条に記述されている幸福追求権が基になっています。
ただ、二つ疑問があります。見ない権利の行使を企業に任せるべきなのでしょうか?そして、幸福追求は、不幸からの忌避なのでしょうか?この二つを軸に今の見たくないものを見ない権利論について批判していきたいと思います。
ちなみに、今回の文章、先に進んでいけばいくほど、理解の難易度が上がります。基本的には平易でわかりやすい表現を意識していますが、後ろになればなるほど難しくなってしまうのでその点、ご了承ください。
自分の権利の行使を他人に任せるな
見ない権利は、個人レベルではかなり強く行使できます。Twitterにおけるブロック機能/ミュート機能、Youtubeでもおすすめ動画とされていてもその右の縦に並んだ三つの点をクリックすれば表示しない設定ができます。また、ニュース系のサイトでも表示したくないものをしっかり設定できるようになっています。
ただ、これらはすべて個人レベルです。どうしてそれをプラットフォーマー(ここでは、Google, Twitter, Facebookなどのサービスの運営企業、情報伝達において上位に君臨する存在、新聞社などのメディア)は全体で設定しないのかと考えられる方がいらっしゃるかと思います。全体で設定しない理由は代表的なものが二つ存在します。
1:好みの多様性
人によって好きなものは大きく異なります。それと同様に見たくないものも大きく異なります。プラットフォーマーとしても好きなものの範囲を広げればプラットフォームを長く使ってくれることにつながるので、好きなものの限界を調べるのに試しに表示することがあります。それを好きなのか嫌いなのかを判定できるのはユーザー個人しかいません。そして、その内容は一回表示しないとそのユーザーは判定できません。ゆえに、一回新しいものを表示してみるリスクを負います(とは言ってもコンテンツマップで近いものなのでその新しいものはユーザーが好きなものである可能性が高いとされて表示されています)。
言うなれば、「好みっぽいものを選ぶのに好きなものと嫌いなもの教えてくれないと選べないよ」ということです。他人はユーザーの好みを知りません。プラットフォーマーでも知りようがありません。ただ、少しずつ好きなもの、嫌いなものを聞き出していくことで、粗いながらも予想をしていくのがプラットフォーマーがやっていることです。それ以上のことはできないので、ユーザーの好みを得ようとしているわけです。
2:プラットフォーマーの「無責任」さ
「無責任」と書くと、プラットフォーマーを批判しているように見えますが、違います。プラットフォーマーが負える責任にも限界があり、我々ユーザーの情報の取捨選択まで責任を完全に負うことができないということです。情報プラットフォームは、あくまで最適な情報を提示するための道具です。道具は責任を取れません。
自分自身は新型コロナのワクチンの効能は科学的に証明されていると考えており、ワクチンの三回目の接種もしました。と、前置きしておかないとおそらく書き方が悪くて自分が反ワクチンの回し者と扱われてしまいそうなので書いておきます。例えばですが、反ワクチン/反マスクの人間は各プラットフォームに存在し、その理論(?)をぶちまけています。それを法的根拠なしに排した場合を考えてみましょう。もし、法的根拠なしに反ワクチンを排し、後に反ワクチンが正しかったことが分かったと仮定した場合、その「正しい情報を弾圧した」責任は誰が負うと考えられますか?プラットフォーマーになります。ただ、正しい情報を弾圧して、社会を混乱に陥れた責任はプラットフォーマーでは負いきれません。言うなれば、「プラットフォーマーという限られた人間では負いきれない社会全体で責任を負うべき事象の責任を社会の構成員であるユーザー一人一人が肩代わりしている」のが現状です。
幸福追求≠不幸からの忌避
さすがにあまりにも残酷な話になりますが、社会全体が見たくないものから目を逸らしたところで、幸せになれますか?鬼のような話をしますが、見たくないものから目を逸らし続けた結果が気候変動による超強力な台風やゲリラ豪雨、猛暑に苦しみながら少子高齢化で人口が減少することが確定し、国際競争力を失い衰退する経済の中で苦しみながら生きなければならない今の若者ではないのでしょうか?文明を残した先人には悪いですが、解決の糸口ぐらい用意してくれてもよかったのに…とは思います。が、そこは自分ができることを探して善く生きるしかないので深い言及は避けます。
眼前の不幸を避けたところで、真の幸福は待っていません。真の幸福を得るためには眼前の不幸に立ち向かい、克服する必要があります。筆者も、常に眼前の不幸に立ち向かい克服する強さはありません。ただ、それでも眼前の不幸の原因を適当な他人に押し付けて何もしないなんてことはしません。
最後に
自分の幸福は自分で追求しなければ実現できません。嫌なものが目の前にあるのなら社会に目隠しをしてもらうように騒ぐのではなく、自分で見ないようにするか、立ち向かうかのどちらかをしませんか?ちなみにはっきり言っておきますが、表現規制をしたところでそれは問題に立ち向かっているのではなく、社会に問題からの目隠しを押し付けてるだけです。
つまり、自分で自分の幸福のために動くことこそが真の幸福追求だと言えます。それをせずに自分を幸福にしてくれと言われたところで何が幸福なのか知る由もないし、他人の幸福を実現する義理はありませんし、その上プラットフォーマーは幸福を実現する責任を負えません。見たくないものを見ない権利はすべてユーザーであるあなたにしか実現できない権利です。
もしよろしければ、スキ、拡散への協力、Twitterへのフォロー、コメントなど、よろしくお願いいたします。