小さい という状態は
他者と比較し、なおかつ自分がそれを下回る結果だった場合にのみ認識する情報ではなかろうか。

なぜなら 自分が他者を上回った時
自分が大きいと認識しにくいからだ。
その他者の小ささに焦点がいきがち。

下回る存在の方が共感を置いてしまいやすい
上回る存在に対しては恐怖心や危機管理能力からその大きい対象物からどう見えているのか?
という視点になりがちだからだ。

 

いきなり回りくどい話をしたが
 

小禄という地域がある。

 
 
私はいつも

この小禄という地域が

どこからが小禄で、どこまでが小禄なのか

わかりあぐねている。

 
いや、なんとなくわかるのだけど
ちゃんと調べればいいんだけど
もっと言うとそんな気になってもないんだけど

なんかこの漠然とした感じが好きなんだ。

 
 

「うるくニッポン」という言い回しがあって

那覇のそれ以外の地域の人が小禄の人を揶揄する時につかう言葉で
私はこのニュアンスに人の上下感情の極みみたいなものを感じる。

この言い回し自体がけっこう年代が上の人しか使ってないのだけど
当時の沖縄と日本、そのプライドやコンプレックスが仄かに沸き立つ。
小禄は那覇の中心からすると僻地で
東京からしたら埼玉みたいな感じなのだと思う。

この「うるくニッポン」という言い回しを使うときにセットで出てくるエピソードとして
「空港建設の影響で小禄が一番最初に電気が通った」
という話。

実際最初だったのかはわからないけど
そこから
「小禄は那覇の中心と比べると田舎だけど電気が通ってるから日本の一部ではある」
という発想の元にこの言い回しらしい。

これはめちゃくちゃいろんな味わいがある。

 

 
沖縄から日本を見てる視点の皺寄せ的なものが小さな比較摩擦の中で同族嫌悪的なものを産むのか
いや愛情の裏返しとも表現出来るいわゆる「いじり」的な感覚のものだがそこにあるなにかが垣間見える気がする。
私が知りもしないのにそういうストーリーを勝手に乗っけるのもよくはないのかもしれないが
ただ本当のところは確認しようもない。

そしてその当時の日本も世界という自分より大きいものの中でどういう立ち位置だったのか。

 
 
なにかをいじったり無意識に見下したりする時
そこには確実に自分の置かれてる状況のエッセンスが含まれた表現になってしまう。
かといって聖人君子にはなれないしむしろなろうとも思えないが
少なくとも俗語として定着してるのであればおそらく自虐の精神があったのだろうし
もしそういう状況になったのならせめて小粋ではありたいものだなと思ふ。 

そんな事を感じたり感じなかったりしつつ
私は小禄ジャスコの前を通りすぎながら「ここのフードコートで部活帰りにはなまるうどん食べたな」とか
マンガ倉庫小禄店を眺めながら「ここ昔メイクマンだったな。中のつくりほとんど一緒だよなぁ」とか
小禄中学校を横目に見ながら「荒れる成人式がよくニュースで取り上げれてた時期、うちの学校の校庭映ってたなぁ」とか
思い出していた。
 
 
 
禄という言葉の意味は給与や物資。

小禄という地域が地元の私はその小さな思い出を自らの財産だとお粗末な結び付けでこの文章を終わらせてみようか。

 
実際の年収も少ないし 。

たは~

オワコンニッポン

てへぺろ