目の前にある物をよく見落とす。

探し物をしてて すぐそこにそれがあるのに
見つけきれなくて 諦めて 人に聞いて
「いや、近くにあるじゃん」と言われる。

集中力が無い。見ることに対しての。

抽象画が好きで

ダリ、シャガール、石田徹也、ジャンデュビュッフェ、五月女ケイ子 このあたりが好きで どこまでが具象、どこまでが抽象かは捉え方として曖昧なのですが なんと言うかたぶん

大体で見て、わかるもの

が好きなんだと思う。

もちろんメッセージがあったりテクニックがあったりするのですが こちらサイドの印象論として なんとなく伝えたいことがわかる というレベル を許容してくれる感じ。簡単に言うと細かくない。

それでいて押し付けがましくない。

そんな感じが好きです。

かいけつゾロリの見開きでのメカの説明や

うすた京介のダバダバしてる時のビジュアル

Franz K Endoの超展開が永遠と続くドラえもん

絵のダイナミズムはそれらにあるとわたしゃ思う。

私の古い記憶の中で1番目か2番目の思い出

1〜2歳の私がクレヨンを持ってそれをやみくもに白い紙に擦りつけている。
その隣で私の母親がそれに対してリアクションをしてくれている。
おそらく私が絵を描いていることを褒めているシーンなのだが 私は絵を描いてるという自覚が無い。
ただクレヨンを白紙に擦り付けるとこびりつくんだということを認知しているに過ぎない。

しかしそれを絵を描くこととして褒められている。
それが私の脳に刻まれている。
これが私の表現活動の初期体験である。

描いているつもりは無いけど
描いているとして褒められている。

もっと言うと
描いてるつもりは無いとわかってるけど褒めてるし
そうだと感じてるが褒められていることも分かってる。

情報処理とコミュニケーションの間には常にこのようなズレがある。

私がこういう文章を書くのも
褒められたいからであって
そして
その褒められに求めるものは
確かな主張の容認でも
絶対的な美意識への共感でもなく
なんとなくいいね
という漠然とした肯定が欲しい。

もう大人だし
それに執着するのは稚拙だと思うが
その記憶に抗えないし
かと言って褒められようと努力も出来ない。

ただなんとなくクレヨンを握り
ただなんとなく白紙に擦りつけてみただけなのだから。

その記憶もこの文章もうすらぼんやりとした

私の抽象画の一部に過ぎないのだ。

とりあえず

なんでもいいから

誰か褒めてくれ。

話はそれからだ。


ん?
もしかして また
大事ななにかを見落としてます?