笑いにまつわる
尊さ、正義感、健康効果 が苦手だ。

野暮を承知で言いますが
一周回って美談になる感じが冷めてしまう。
頭ではわかっているけど 面倒くさいな と思ってしまう。

芸人の下積み時代の話
笑われる笑わせるの違い
「なんか面白い事やってよ」という素人とそれに対するプロ意識
海外の笑いは政治批判もするという触れ込み
笑うと寿命が伸びるという情報

 
これら全部がどうでもいい。
 
 
言ってしまえば自己啓発じみてる。
いや 自己啓発でけっこう なのですが
なんかもうそれ前提で消費されてる感じがあまり好きではない。

 
私は別に
「これこそが本当の笑いだ」みたいな私信は無い。
もっと言うと「笑い」という言い方じゃ無くてもいい。雑に分類してみてるだけ。

ただそれは大多数の皆さんもそうだと思うのです。
都合よくどうとでも捉える事が出来るので 好みのものやよく分からないものをあてがったり押し付けてみたりしてる概念のひとつにお笑いがあると。

 
「お笑い」から「笑う」という行為だけを
引き抜いて 見てみたい。

 
「笑う」という意味での「笑い」とはなにか?
  

 
自分がはじめて笑った瞬間のことを覚えてはいないが
子供の頃「今おれ愛想笑いをしてるな」と思った記憶が なんとなくある。

 
幼稚園生の時
母親がトムとジェリーのビデオテープを買ってきてくれた。
家事をしている間 我が子の遊び相手になってあげることが出来ないので これを観て暇つぶしをしとけという感じで再生ボタンを押した。

ドラえもんやアンパンマンは観たことあったけど海外のアニメーションは初体験。日本の幼児向けのそれよりは若干刺激が強い。心地良い安堵感というよりテンションを上げる代物。面白いという種類の中でも興味深いという印象だった。
ただ声を上げて笑うという感じではない。

しかし私はそれに惹かれた。
観ながらにして私はまた次もこの種類のものを観たいなと思った。さらにこれを買ってきた母親が自分のリアクションを気にしているのも感じた。


 
なので私は

  

 
大袈裟に笑った。


居間のテレビの前から台所にいる母親に届くように「私 これ気に入ってますよ」とアピールのために笑った。
実際 音楽に乗せてリズミカルに動くキャラクターが新鮮だったのだと思うから それを自分の中で盛り上げて過剰に笑う事に高揚感もあったし どのポイントで声をあげればいいか探るのも楽しかった。
 

 
これが私の愛想笑いの原体験だと思う。

厳密に言うと 笑い声の演出体験。
深夜ラジオの構成作家とか
ドリフ大爆笑のおばさんの煽り笑いの効果音とか
お笑いライブにたまにいる変なタイミングで笑うおじさん とかと一緒。

わざとらしかったと思う。

 



さりとて

こういう
他者へ向けて行うというシチュエーションでしか、笑いという表現方法は発動し得ないのではないでしょうか。

 
赤ちゃんがいないないばぁで笑うのは
敵意が無いという状態を相手へ見せるため
対象と同じように顔面の筋肉を動かしているに過ぎない。
それが無意識下に刷り込まれていく。
そして他の状況でも緊張と緩和が起こった時つい反射的に口角が緩んでしまう。
基本的にそういうメカニズムなのだと思う。

つまり ただの癖。ラリってる。

だから従順関係の中で多用されるし
無敵対のアイコンになっているため感動系のファッションと絡めさせやすい。
ただ刺激に対しての喜びという感情の確認作業なだけなので持続性はない。
本当にリラックスしてたらいちいち笑い声は上げない。
むしろ一日中 笑顔の人がいたら 気持ち悪い。
 

笑いは 瞬間性の脳内麻薬。

 
そんな感じなのではないでしょうか。

 
 
 

そう考えると

 

 
 

 
ちょっと ひきますね。