私は 恥が好きだ。

自分が恥じてる瞬間も。

他人が恥じてる瞬間も。

個人が恥じてる瞬間も。

集団が恥じてる瞬間も。

恥ずかしいという感情、構造、熱量、時系列、それ自体がたまらなく好きだ。言うのを憚るが。

いわゆる羞恥心だが
なぜそれが好きなのかの説明は意外と難しい。
マゾヒズム的なものでしょ。と捉えられてしまったらそれまでだけども微妙に違う。

バラエティ番組を観てて
誰かが台詞を噛んで緊張がバレてしまう。
それが笑われていた時の気恥ずかしさ。
直接自分に関係なくても芽生えるなにかがある。
共感性羞恥。

鼻毛が出ている。
空腹でおなかが鳴る。
雨止んでるのに気付かず傘さしてる。
それらがオフィシャルの恥ずかしさだとして。

誰しもが経験するわかりやすい失敗ではなく
いわばハプニング的に公衆の面前にさらされたプライベートな部分、圧倒的格差のようなものを関係性の共有フォルダに入れてしまった瞬間、学校と塾とでテンションが違うのを友達に見られた、などに感じる罪悪感めいたものを好きだと言ってるのかもしれない。

だとしたら相当な変態じゃないか。

いやちょっと待って。まだ そのドアノブにかけた手を一旦降ろしてほしい。私はこれを共感できると思って話してはいる。

七五三祝の写真
学校の卒業アルバム
結婚式で行われるスピーチ
これらが感傷的な物として消費されるのは恥ずかしさが内包されているからだ。

形式美や必要悪は反復や拡大をする事で個人の意識を超えてくる。
一番最初の参入は恥ずかしい もしくはなにも感じてないはずだ。

赤ちゃんの頃は裸が恥ずかしくは無い。
物心をついて社会的意識が芽生えた時 服を着ていない状態を他人と比較し始める。
異性との体付きの違いを認識し始める。
そして服を着る。精神的にも。
その差異で自らのコミニティを確認する。

ただ南米の裸族集落にいきなり連れて行かれ 今日からここで一生過ごす となったら遅かれ早かれ服を着ていることが恥ずかしくなってくるのは想像がつくはずだ。

つまり恥は 慣れでどうにかなる。

集団行動をする動物の防衛本能であり、その状態や環境に適応したら感じなくなる一種のバロメーター。自意識であれ対面であれ大人数であれ全ての関わり合いは恥の上に成り立っている。そう考えるとこの社会生活は流動的な個人感情の総意である。

そして その慣れたテンポが崩れる瞬間

例えば
酒場で女性から恋愛経験の乏しさを指摘された時
例えば
職場で年下の女性から仕事のミスを注意された時
例えば
携帯で調べものが見つからなくて知人の女性から「ちょっと貸して」と言われて渡したら予測変換でエロい検索ワードを見られた時

恍惚のタイミングであると 私は言っている。


…やっぱり変態じゃねぇか!

防衛本能ではありますが守備を固めすぎると内側から腐敗してゆく事がわかる いい例となりましたね。

恥じるは逃げだし役立たず

たは〜

ありがとうございました。