オーラとは においの事だと思う。

武田砂鉄が「日本の気配」の中で
空気がその場で起きていることの傾向ならば
気配は周囲の状況から感じられるようすである。と定義していた。

とても敏感な表現だ。
私はそのさらに前段階に雰囲気というものが存在すると思う。

雰囲気
とても掴みどころの無いものだ。

というか雰囲気には正体がある。
匂いのもとがある。
ただそれを掴んだからと言ってなんの意味も無い。
手に匂いがこびりつくだけ。
だからあまり皆掴まない。
それを享受するかは個人次第。
その皆わし掴みにはしないけど個々にある距離感の差異 それが雰囲気だと思う。

私は雰囲気自体はとても好き。

雰囲気でご飯三杯はいける。
三度の飯より雰囲気好き。

雰囲気自体にあまり意味は無いし責任も無い。
ただ価値観や嗜好性はある。
演芸用語でいうとこのフラ。

雰囲気を弾圧する思想もある。
やれ「雰囲気だけ」だの
やれ「雰囲気で誤魔化している」だの。
正直 その矛先の向け方、向ける先の決め方も雰囲気で左右されてるだろ。と思う。
ま、私が言ってるのもこれまた雰囲気だけですが。

雰囲気を軽んずるなとか
雰囲気を壊すなとか言いたいわけじゃない。
ましてや核心に迫ることや知的好奇心を失くせとも言ってない。
もっと雰囲気を楽しんでみてはいかが?
と思てる。

嗅覚は順応する。
同じ匂いを嗅ぎ続けると慣れてその匂いを感じなくなる。
普段私達は日常生活の中でもっといろんな匂いを感じているはずでそれに麻痺したまままた日常生活を送るので気付かぬうちにそれが身体に染みつく。
その混ざり滲み込んだ匂いが脳へ物体の継承を促す。

匂いはまず己から発せられてるのだ。

私は雨の降ったあとの匂いが好きだ。

海の近くに差し掛かった時の匂いも好きだ。

高速道路を走ってる時、牛舎や養鶏場の側を通ったのが一瞬でわかるあの匂いも好きだ。

定食の焼き魚の上にかけるレモンを絞ったあとの自分の指の匂いも好きだ。

告別式で手を合わせる前に香炉に指す線香を持って順番待ちをしている時の真下から上がってくる煙の匂いも好きだ。

妙齢の女性が自己主張強めに振りまいているキツめの香水の匂いも好きだ。

赤ちゃんの粉ミルクの匂いも好きだ。

キスをしている時の交換している唾液の匂いも好きだ。

その時の思い出とともに鼻孔から蘇る情景のひとつひとつはその世界の粒子と同等に私が確かにその時そこに居たという存在の認識を呼び戻す。寝ている時にも呼吸はしている。五感の機械化の中で最も遅れているのが嗅覚である。我々が生きている事の証明と確認は自らの発している匂いと自らが嗅いでいる匂いが大気中で絡み合い複合されて漂い溶け合うどこかの誰かの匂いだからだ。

ロマンチックで
いささか クサい台詞でしょうか…?